「ガンディーの真実」間永次郎:著

2024年2月6日

本書(「ガンディーの真実 非暴力思想とは何か」間永次郎:著、ちくま新書)の目的を著者は次のように述べている。
「本書の目的は、ガンディーの非暴力思想の意味を、サッティヤーグラハ(真実にしがみつくこと)の思想を手掛かりに探求していくことである」ガンディーの真実
ガンディーによって提唱された「非暴力(アヒンサー)」という言葉は、私たちが表層的に考えている、暴力を用いない抗議運動とは異なるようだ。
著者は
「ガンディーの非暴力は単に政治的な抗議の方法(ガンディーの場合は反英独立運動)としてのみ語られるものではなく、衣食住や宗教を含む公私を跨ぐ生活領域全体に及ぶ主題であった」と指摘している。
すなわち、日々の生活に根差した活動だということだろう。具体的には、日常の「食」や「衣服」、「性」、「宗教」などの実践に根差している。
本書を読んで、ガンディーはひとつひとつのことを徹底的に考え抜き、そしてそこから得られた自分の考えを頑ななまでに貫いた人に見える。自分の主張をめったに曲げないから、当然他者とぶつかることもある。特に長男との間に生じた確執は大きな悲劇を招く。
著者は、日常生活におけるガンディーの徹底ぶりを食や、衣服、性について具体的に記している。例えば、食については以下の如くだ。
ガンディーは、食とは他の生命を食べるために殺す、すなわち暴力的な行為だと考えた。
「肉食者であろうと菜食者であろうと根源的に考えると誰も非暴力的ではない」「私たちの身体は、他者の痛みと苦しみの産物である食物を食べて、苦しみとは真逆の快楽を感じとるわけである」
「ガンディーはこのように人間に生まれながらにして備わった身体の自己中心的本能が、食や性の領域を超えて、最終的に人種差別や植民地統治といった社会・経済・政治の暴力的構造を作り出すに至っている」と考えたようだ。
このような考えから、ガンディーは徹底した「非暴力的」なレシピを作り出そうと考え、それを実践していった。

著者はガンディーの非暴力思想の特殊性を指摘している。
ガンディーの非暴力思想は以下の3つのレイヤーから構成されているという。
①のレイヤー:完全な非暴力
②のレイヤー:非暴力的暴力
③のレイヤー:偽善的無抵抗
③よりも②、②よりも①が望ましい、としている。
③は、闘争する相手と対峙したときに、恐れや臆病な心持から、相手に無抵抗に服従することを指す。偽善的な無抵抗よりは、相手に暴力を振るったとしても、強い気持ちと信念で立ち向かう方が優れている、という考えのようだ。
ガンディーの非暴力思想は、当たり前だが、完全なものではなく、今日から見れば理解が得られない部分もあるだろう。また、いくつかの矛盾点も見られるようだ。
例えば性(性的欲望)に対する考え方には明らかに矛盾した部分がある。
ガンディーは性的な欲望は自己中心的な「執着心」であるから「暴力」の一種だと考えた。一方で性的欲望は「生命エネルギー(非暴力的なエネルギー)」の源だと考えていたようだ。
心理学的にみれば、人間のこころの中にこのように相矛盾するものが存在するのは自然なことだと思う。ガンディーの中で、暴力的なエネルギーと非暴力的エネルギーという相矛盾したものが、何らかのかたちで統合されていったのだろうか?
さらに、ガンディーのブラフマチャリヤ思想は、第一次独立運動後に大きく変化したという。この変化とは「女性原理」が強調されるようになったことだという。
このような変化も心理学的にみると、ガンジーの無意識下にある女性的要素(アニマ)に、なにかしらの変化があったのかもしれない(単なる私の憶測です)。

ガンディーの思想を考えるうえで宗教は重要な構成要素だろう。
インドには二大宗教であるヒンドゥー教とイスラム教のほかに、シク教、仏教、ジャイナ教、ゾロアスター教、キリスト教、ユダヤ教があるようだ。このように様々な宗教が存在するなか、ガンディーは「異なる信仰者が互いを排除することなく、尊重・共生する平和的社会の構想を最も熱心に訴え続けた」そして「様々な宗教は唯一の場である”絶対的な真実”に至るための異なる道である」と考えた。
著者は、「ガンディーは、全ての宗教に通じる絶対的な真実に至る唯一の道は非暴力である」と考えたことから、これを便宜的に「非暴力的宗教多元主義」と呼んでいる。

著者は「ガンディーの非暴力思想の現代的意義を考察していくうえで不可欠なことは、その思想の綿密な研究と反省を繰り返し、それを”批判的に”継承していくことである」と指摘している(盲目的に受容することなかれ)。
また、ガンディーの思想の欠点の一つを以下に指摘している
「彼の行動を動機付けていた思想には”根源的な自己中心性”が伺われる。 自己が宇宙であり、自己が全てであり、・・・自己から独立して実存している他者の居場所はなかった」と。
このあたりのことは難しい問題を孕んでいるように思える。
ガンディー思想にはウパニシャッド哲学の影響があったというから、ガンディーにとって自己(アートマン)と宇宙(ブラフマン)は究極的には同一であり、この境地を目指して修行していたと考えられる。
自己中心性というときの自己は宇宙と不二になり、他者の存在は宇宙の一部になるだろう(すなわち、他者は宇宙の一部であり自己”アートマン”と不二である)
この事態が傍から見て自己中心的に見えるとすれば、ガンディー思想の根底に無理があるということではないだろうか。
この問題はガンディー思想に限った話ではない。例えば、禅仏教は自己が悟ることを目的に修行しているように見えるが、仏教(大乗)の本質が慈悲や利他にあることから、慈悲の心は他者を含む宇宙へと広がらなければならない(と思われる)。
しかし、私たち傍から見るとこの修業は自己中心的にも見える。
この問題は私たち凡人にはよく分からないから、この辺にしておく(私は修行すらしたことがないから、この辺の事情がよく分からない)。
ひとつ言えることは、世の中の出来事の善悪は、(悟りとかではなく)知識と理性をもって個人個人が判断し対処するしかないということだろう。
(仏教が戦争に加担した事実を踏まえて鈴木大拙がこのことを指摘している)
本書には、紛争やテロが絶えない現在にも通じるガンディーの教訓が記されている。
「彼(ガンディー)は、社会で最も巨大な”暴力”を可能ならしめるものは、専制君主や暴漢やテロリストではなく、社会の大多数の人々の何気ない不正に対する同意であると考えるに至った」


2024年2月6日 追記:アンベードカルと佐々井秀嶺について

書籍「世界が驚くニッポンのお坊さん 佐々井秀嶺、インドに笑う」(白石あづさ:著、文藝春秋)のなかに、「第9章 ガンジーが嫌われたのはなぜ?」という見出しの章がある。佐々井秀嶺
ここに、アンベードカルという人物が紹介されている。(日本人を含む外国人にとって)ガンジーは有名でも、アンベードカルはあまり知られていない(私も知らなかった)。
ガンジーが比較的裕福な家庭に生まれたのに対して、アンベードカルは不可触民の家に生まれた。彼は不可触民の出ではあったが、教育熱心な父親のおかげもあり、学校に通うことを許される。
やがて、彼は不可触民では初めてボンベイ大学に入学。卒業後はコロンビア大学に留学して博士号を取得している。
アンベードカルは、虐げられている同胞(不可触民)を助け、カースト制度の差別と闘うために政治家として活動するようになる。
ここでアンベードカルは、カースト制度を容認するガンジーと対立するようになったようだ。不可触民の人たちから見れば、ガンジーよりも、自分たちを擁護して差別と闘うアンベードカルを支持するのは当然のことだろう。
アンベードカルは、仏教の平和や平等の教えに感銘して「仏教への改宗」を決意する。1956年に50万人の不可触民とともに、ビルマから高僧を呼んでナグプールで「大改宗式」を行った。
しかし、アンベードカルは志半ばで死んでしまう。彼の死後その遺志を継いで(龍樹の啓示を受けて?)不可触民たち仏教徒を束ねる役割を担ったのが、本書「佐々井秀嶺、インドに笑う」に描かれている日本の僧、佐々井秀嶺である。
本書には、佐々井秀嶺氏の波乱万丈の人生と怪僧ぶり(?)が活き活きと描かれている。
私は本書を読んでヒンドゥー教徒と仏教徒の対立を初めて知った。私は、仏教はヒンドゥー教に吸収されたという認識でいた。ヒンドゥー教では仏陀はビシュヌ神の生まれ変わりとされ、この解釈によって実質仏教はヒンドゥー教に吸収されて滅んだようだ。
しかし、アンベードカルの運動により仏教が(主に不可触民の間で)復活したことから、ヒンドゥー教徒との間で新たな対立が生まれたようだ。
例えば、仏陀の聖地として知られるブッダガヤは実質的にヒンドゥー教徒が管理していたが、これを仏教徒の手に取り戻すべく「ブッダガヤの奪還闘争」が行われているという。
インドは、カースト制度(カースト制度は本書に書かれているよりもずっと複雑だという話を聞いたことがある)や宗教が複雑に絡み合っていて、私たちには理解が難しいと感じる。


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Posted by kondo