エッセンシャルワーカーとIT業界

2024年2月7日

「エッセンシャルワーカー」(田中洋子:編、旬報社)は、そのサブタイトル「社会に不可欠な仕事なのに、なぜ安く使われるのか」にあるとおり、エッセンシャルワーカーの労働条件の過酷さや、低賃金の実態をあぶり出している。エッセンシャルワーカー
本書の目的は、
①現場を担う人々の働き方を、現場に即した形で明らかにすること(現状分析)。
②いつからどのようにしてエッセンシャルワーカーの働きが悪化したのかを分析すること。
③どうしたら現在の状況を改善できるのかを、ドイツの例を参考に考察すること。
である。
①の「現場に即した形」にあるとおり、本書にはスーパーマーケット、外食チェーン、自治体の相談員、保育園、学校の教員、ごみ収集作業員、看護師、訪問介護職、運送業、建設業、アニメーター、それぞれの具体的な事例が紹介されている。
本書ではエッセンシャルワーカーを、以下の主要な5類型に分類している。
①小売業における主婦パート(主婦を中心とした低処遇のパートタイム)
②飲食業における学生バイト
③公共サービスの担い手の非正規化・民営化
④女性中心の看護・介護職
⑤委託・請負・フリーランスの担い手

本書で紹介されているエッセンシャルワーカーの働き方や組織構造には、多層下請け構造やフリーランスの存在など、私たちIT業界にも共通するところがある。これについては、後ほど考察する。

本書には、思っていた通りというか、「ブルシットジョブ くそどうでもいい仕事の理論」からの引用がある。
(「ブルシットジョブ」は以前にブログ記事で紹介した)
「ブルシットジョブ」では、「労働が他社の助けとなり、人々に便益をもたらし、社会的価値があるほどそれに与えられる報酬はより少なくなる」という一文(仮説?)がある。
先進国では、社会になくても不都合のない高賃金の職種(くそどうでもいい仕事)が増える一方で、社会インフラを支えるエッセンシャルワーカーの賃金は低下していることが指摘されている。

本書では、エッセンシャルワーカーの処遇(労働条件、賃金)が悪化した原因は、(業種別にみればそれぞれ個別の理由があるけれども)、大まかにつかむと以下のようなことが考えられる、としている。

・1990年代以降の長期不況と自由化政策のもとで、日本的雇用システム(終身雇用や年功序列型の賃金制度)を維持することが困難になり、コスト削減や人件費削減が進んだ。
・コスト削減のために、現場の担い手を安く、都合よく働かせる新しい仕組みが広がった。
現場で働く人々に過重労働や低賃金などのしわ寄せがいき、これが日常構造化した。
・このような構造を是とする価値観が普及し、拡大した。

上記のコスト削減、人件費削減に用いられた手法が、労働者の非正規化であり、多重の下請け構造であろう。
特に非正規雇用のパートタイム労働については、2007年に改訂されたパートタイム労働法の影響が大きいという。
「パート労働法が、残業や転勤の有無による処遇格差を法的に正当化した」と指摘している。
これは、本書のなかのスーパーマーケットの事例で顕著である。
正社員は転勤や残業を受け入れている(時間的、空間的な制約を受け入れている)労働者であり、パートタイム労働者(主に主婦)にはこれらの制約がほとんどない。
この制約条件の有無から等級制度は正社員とパートで別建てになっている。その結果、賃金も正社員とパートでは異なり、同じ仕事をしていても正社員とパートでは時間単価が異なるという奇妙な(?)事態が生じる。

この点、ドイツの事例は賃金制度や労働条件が分かりやすく、公平性が高い。
ドイツは基本的に労働者は無期雇用契約で、給与表も一つである。
フルタイム勤務とパートタイム勤務の差は労働時間の差であり、労働時間によって一律に賃金が決まる。
これはドイツが基本的にジョブ型雇用だからだろう。
では、日本もジョブ型に移行すれば良いのでは? と思うけれども、それほど単純ではないのかもしれない。
日本の雇用システムは長らくメンバーシップ型(終身雇用を前提に会社への帰属を重んじてきた)から、これを一気に改革するには抵抗があるかもしれない。
それでも、イケア(IKEA)は2014年に有期雇用のパート制度を廃止し、イオンは2023年にパートと正社員の待遇を同一にする改革に取り組むなど、変化の兆しが見える。

人材不足で特に危機的な状況にあるのが訪問介護職である。
(もちろん、これ以外の運送業や建設業でも人材不足が問題になっている)
都市部における訪問介護職の求人倍率は、2013年度に3.29倍であったものが、2022年度には15.33倍まで悪化している。2025年には介護労働者の不足は32万人に達するそうだ。
訪問介護職の問題は、拘束時間に比べて賃金が低いことである。
これは、訪問から次の訪問までの待機時間が無給であることや、移動時間が低賃金に抑えられていることなどが関係している。
さらに、制度改革でサービス時間が細分化されたことが、労働条件や賃金の悪化に拍車をかけた。
ドイツの介護職も日本と似た状況にあった。
ドイツでも高齢化が進み介護が社会的な課題になっていた。給与水準も看護師、介護士は長い間低い水準に留まっていた。
しかし、2007年頃から給与が上がり続け、この15年間で全てのケア職の給与は1.4倍になったという。

コスト削減、人件費削減が進んだのは民間だけではない。
自治体の相談支援員や、保育士、教員、ごみ収集作業員などでも、労働条件の悪化と賃金の低下がみられる。
これらの背景には、非正規雇用の拡大、民間委託の推進(アウトソーシング)、下請け重層構造など、
民間の事業と共通した構造がみられる。


以上、本書の内容を概観したが、IT業界にも同じような構造があるので、この点を考えてみたい。私は常々IT業界と建設業界には似たところがあるなあ、と思っていた。
一つは多層下請け構造であり、この構造のもとで職種も上流工程と下流工程に分かれている。
IT業界(ここではエンタープライズ系を指す)では、元請けのSIヤーが提案活動や設計の上流工程、PJ管理を担うケースが大半である。
そして、プログラミングやテスト工程は下請けや、下請けに参入したフリーランスが請け負うことが多い。
下請けの構造は多層化している場合がある。
建設業も、顧客への提案や上流の設計を元請けが実施して、建築現場を下請け企業や一人親方が担っているようだ。
2010年時点で、世の中のフリーランスの大半(49%)は建設業に従事しているそうだ。多層下請け構造の問題点の一つは中間搾取である(言葉が悪いが)。
元請けから下請けに流れるお金は、多階層の層が多いほど、中間でとられる管理費(と称するマージン)が増えて、現場の労働者が得る収入は低くならざるを得ない。
現場の労働者が低賃金になると、入職者が減少して労働力不足、人材不足を招く。
このような多層下請け構造は運送業にもみられる。トラックドライバーの賃金水準低下と、人材不足はいま、「物流の2024年問題」として騒がれている。

IT業界で多層下請け構造が出来た理由は、人材の流動性を高めて要員調整を柔軟にするためだと考えられる(もちろん、価格交渉を行うことでより安い下請けを使いたいという動機もあるだろう)。
IT業界の仕事(情報処理システムの構築)は、ほとんどがプロジェクト単位で実施、管理される。
ひとつのプロジェクトを見ると、必要な要員(プログラマーやSE)の数は工程ごとに変化する。
プロジェクトのはじめ(上流工程)は比較的少ない要員数だが、下流工程に行くほど必要な要員数が増えていき、製造工程(コーディングや単体テスト)でピークを迎え、その後はまた必要な要員数が減っていく。
このように比較的短い期間で要員の数を調整するために下請け構造が進んだと思われる。
SIヤーが自社の正規従業員だけでこのようなプロジェクトに対応するのは、要員の数の上でも、流動性という面でも対応が難しい。
正規従業員は(日本ではほとんどがメンバーシップ型雇用だから)、あっちのPJからこっちのPJへと都合よく配置できるとは限らないし、PJが終わったからと言って解雇できるわけではない。
このような観点では、下請け構造は要員のバッファとして使われている側面がある。

IT業界は世の中では進んだ業界だとみられるかもしれないが、現実には「労働集約的」な産業である。
大きいプロジェクトだとピーク時に1,000人を超える要員(SEやプログラマー、管理要員など)が必要になるケースがある。
「労働集約的」という観点では、本書で取り上げられているエッセンシャルワーカーも同じだと考えられる。
スーパーマーケットではセルフレジ(無人レジ)の導入や、無人店舗の実証実験などが進められているが、それ以外の業種では圧倒的に人手に頼らざるを得ない作業が多い。
人材不足に対応するためには、機械化を進めることが一つの策だろう。
無人運転の自動車やドローンの利用、力作業を補助する器具の導入、などが考えられる。
それでも、相談員や介護職、看護職などでは人間同士のコミュニケーションが不可欠な領域が多く、人手に頼る部分が多く残るだろう。

IT業界も、今後AI(大規模言語モデルなど)の導入でプログラミングの自動化や、設計の自動化が進むかもしれない。
そうなると、AIが作成したプログラムの是非を人間のプログラマーが判断しなければならない。
これには、結構高いレベルの技術力が求められるのではないだろうか。
単なるコーダーレベルのプログラマーは不要になる反面、技術力を持ったプログラマー(AIと共にプログラムを共創できるような人材)が必要になる可能性が高い。

いまひとつIT業界と建設業界で共通するのが「偽装請負の問題」である。
これは業界関係者からみると、古くて新しい問題である。


補足:プロジェクトの要員規模
みずほ銀行のMINORI(勘定系システムを刷新、統合するプロジェクト)は、ピーク時8,000人のエンジニアが参画(推定値)と言われており、文字通り日本で最大規模のシステム構築プロジェクトであった。これを見ても明らかなようにIT業界(エンタープライズ系)は労働集約型の産業だといえる。

2024年1月11日 追記:
書籍「エッセンシャルワーカー」(田中洋子:編、旬報社)にも関連する記事が、朝日新聞に掲載されていた(2024年1月から始まった不定期の連載?)。記事のタイトルは「8がけ社会」。
「8がけ社会」とは、現役世代の数が今の8割(8がけ)になる2040年のことである。今の8割の人手で社会をまわし続ける方法はあるのか? という問いである。
労働力不足の影響を最も受ける職種はエッセンシャルワークであろう。連載記事では、トラックドライバーや介護士、建設業の派遣労働者など、エッセンシャルワーカーの実態が描かれるとともに、掲題の書籍ではあまり触れられていなかった視点が提示されていた。
・女性の低待遇はなぜ生まれ、なぜ防げなかったのか。
バブル崩壊後も日本型雇用(年功序列や終身雇用)を維持しようとした結果、女性は補助業務に押し込められ、さらに非正規化が進んだ。女性の待遇を男性と対等にしようとする試みは「おじさんの壁」に阻まれた。
非正規雇用がもたらすマイナス面を最も被ったのがロストジェネレーション(ロスジェネ)世代である。

・東京一極集中による地方の衰退
2040年までに全国の約半数、896自治体が消滅する可能性がある。労働力不足は(よく知られているとおり)東京よりも地方の方が深刻である。

・労働力不足の対策として、ロボットの導入や外国人を雇用する試みが進んでいる。

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Posted by kondo