2015年 2月 21日

2013年5月、NASAとグーグルが共同で、カナダの新興企業であるD-Wave Systemsの量子コンピュータを導入したことが報じられた。量子コンピュータは、現在のスーパーコンピューターでも解けない問題を高速に解くことができる、といった論調で語られることがあるが、これは少々誤解を招く表現である。量子コンピュータが使われる分野は、現在のコンピュータと比べるとかなり限定的である。
D-Wave Systemsが解けるのは、組み合わせ最適化問題やサンプリングの分野である。

いまのところ量子コンピュータの二大潮流は、D-Wave Systemsが採用している「量子アニーリング方式」と、従来から研究されている「量子ゲート方式」である。
竹内繁樹「量子コンピュータ」は、「量子ゲート方式」を解説した図書である。「量子アニーリング方式」については後述する。

竹内繁樹「量子コンピュータ」は、量子コンピュータの仕組みとその応用分野、そしてその可能性を解説した書籍である。量子コンピュータ
本書は、そのプロローグにもあるとおり、高校生レベルの読者でも理解できるように、分かり易く丁寧に書かれている。それでも、本書の中核である量子アルゴリズムの部分はロジックを追うのに難義する。
本書は大きく4つのテーマで構成されている。
最初の2つは、量子力学の基本的な知識と、現在のコンピュータの仕組みである。この2つは、量子コンピュータを理解する前段の基礎知識に相当する部分である。従って、量子力学や現在のコンピュータ(チューリングマシン)に関する基本的な知識を有する人には冗長な内容かもしれない。
3つ目のテーマは、量子コンピュータの原理と量子アルゴリズムである。そして4つ目のテーマが量子コンピュータの実装に向けた取り組みである。

量子コンピュータの仕組みは、現在のコンピュータとは大いに異なっている。現在のコンピュータは汎用コンピュータと呼ばれるように、いろいろの分野で使われており、企業活動や社会インフラ(通信、鉄道、電力、水道などの制御)に不可欠のものとなっている。これに対して、量子コンピュータの利用用途は、今のところ、かなり限定的である。代表的な利用分野は、情報セキュリティ分野の暗号化(および暗号化にも関係する因数分解)である。
量子コンピュータを理解するうえでポイントとなる重要な概念が、「重ね合わせ」と「不確定性原理」、そして「デコヒーレンス」である。
重ね合わせは、シュレディンガーの猫でいうところの、生きた状態と死んだ状態との重ね合わせである。2つの量子ビットがある場合、それは|00>、|01>、|10>、|11>の4つが重ね合わさった状態をとることができる。これは4つのうちのどれか1つの値をとるという意味ではなく、4つの値がある確率で同時に存在するという意味である。
量子ビットを増やしていけば、同時に取り得る値(状態)を増やしていくことができる。この原理を使って、量子コンピュータは並列計算を高速に行うことができる。重ね合わせを利用した並列計算こそが、現在のコンピュータと異なる量子コンピュータの特徴である。

不確定性原理は暗号化において重要な役割を果たす。量子暗号は1984年、ベネットとブラッサードによって発明された。単一の量子ビットを、ある適当な重ね合わせ状態にセットすることは可能であるが、それがどのような状態にセットされているかを第3者は知り得ない。第3者が盗聴して測定したとしても、不確定性原理により当初の状態を完全には知り得ないからである。第3者による盗聴を防止できること、これが量子暗号の強みである。

デコヒーレンスとは、重ね合わせの状態が破壊されることであり、本質的には状態間の位相差の情報が壊されることである。重ね合わせの状態が破壊されるということは、量子コンピューターの計算がエラーになるということに他ならない。
現在のスーパーコンピュータを凌ぐような大規模な量子コンピュータを作るためには、重ね合わせ状態を長時間維持しなければならない。しかし、重ね合わせ状態を長い時間維持することは出来ないとされてきた。デコヒーレンスは、量子コンピュータを実装するために乗り越えなければならない壁である。

量子論理回路は古典的な論理回路を量子ビットに拡張したものである。量子論理回路は、量子ビットに対して量子ゲートを作用させて演算を行う。そして量子ゲートの基本的なものが回転ゲートと量子ノットゲートである。
著者は、将来量子コンピュータが将棋プログラムに応用されることを期待しているそうである。局面を評価する評価関数の解、ないしは近似値を求めるのに量子コンピュータが使われる日が来るのかもしれない。
(現在のコンピュータによるコンピュータ将棋についてはこちらを参照


「量子アニーリング方式」を解説している図書に、西森秀稔、大関真之「量子コンピュータが人工知能を加速する」がある。こちらの図書も先の図書同様、私たち専門外の人間でも直観的に理解できるよう、分かり易い記述となっている。
量子コンピュータが人工知能を加速する「量子アニーリング方式」には「量子ゲート方式」のような汎用性はない。組み合わせ最適化問題やモデリングに特化した「装置」である。
量子アニーリング方式は、従来のコンピュータのイメージとは全く異なる。量子力学の世界の現象をそのまま利用している「装置(あるいは実験装置)」である。
アニーリングとは、焼きなましのことであり、この数学的モデルを「イジング模型」という。量子アニーリング方式では、焼きなましのように、最適化問題の答えが最低エネルギーの状態(基底状態)に収束する。
基底状態に収束する過程では、量子トンネル効果が重要な役割を果たしている。ただし、量子アニーリング方式では「なぜうまく計算できるのか分からない」側面があるそうだ。この点、量子ゲート方式の方が、古くから研究されてきた分理論が整っているそうだ。
量子アニーリングを使う方法には、上記の専門装置を使用する方法以外に、従来のコンピュータでシミュレートする方法がある。こちらは「シミュレーテッド・アニーリング(疑似アニーリング)方式」という。
D-Wave Systemsはカナダのベンチャーが開発した量子アニーリング方式のコンピュータ(装置)であるが、そのアイデアや要素技術は日本で発明されたものも多く含まれている。

本書のタイトルにある通り、量子コンピュータはAI(人工知能)のシステムに組み込まれたり、あるいは従来型のコンピュータと接続して(すなわちハイブリッド型のシステムとして)利用される想定である。これは量子コンピュータには、(当面は)現在のコンピュータほどの汎用性がないからであり、従って、その得意分野の専用プロセッサとして組み込まれることが想定されているからだろう。


2017年7月追記
日経コンピュータの記事によると、デコヒーレンスの問題は最近の技術的ブレークスルーによって解消されつつある。
米IBMは17個の「量子ビット」を備えたプロセッサを試作したと発表した。同社初となる商用の量子コンピュータ用プロセッサの試作品となる。IBMが開発した量子コンピュータは、ここで紹介した「量子ゲート方式」である。IBMに続き、米グーグルやインテル、マイクロソフトも量子ゲート方式の研究に力を入れている。
米IT企業が相次いで量子ゲート方式の開発競争に乗り出したのは、いくつかのブレークスルーがあったからである。ブレークスルーが求められるのはここでも紹介したデコヒーレンス問題である(「0」と「1」の重ね合わせ状態を維持できる平均時間「コヒーレンス時間」を長くすること。重ね合わせの状態を長く維持できるほど、より複雑で大規模な演算を実行できる)。
グーグルとIBMが開発する量子コンピュータは、量子ゲート方式の中でも超伝導回路を流れる電流の向きで「0」と「1」を表現する「超伝導量子ビット型」と呼ばれる。このタイプはコヒーレンス時間を長くしにくい弱点があった。
2012年、IBM Researchのグループは、これまで2次元平面上に構成していた超伝導回路を3次元上に構造化した。その結果、コヒーレンス時間をそれまでの2~4倍に及ぶ100マイクロ秒まで伸ばすことに成功した。
量子ゲートの実現方式には超伝導量子ビット型のほか、電子のスピンの向きで「0」と「1」を表現する「スピン量子ビット型」がある。慶應義塾大学の伊藤公平教授が作成した同位体制御シリコンがブレークスルーとなり、これをもとに豪州の研究グループが2014年にコヒーレンス時間を1ミリ秒に伸ばした。さらに横浜国立大学の小坂英男教授らはダイヤモンドを基板に使って1万倍となる10秒のコヒーレンス時間を達成した。(以上、出典は日経コンピュータ2017年6月22日号)


2018年3月25日追記
国産量子コンピュータ試作機が「量子コンピュータ」の呼称を中止

2017年11月「スーパーコンピューターをはるかに超える高速計算を実現する量子コンピューターの試作機を、国立情報学研究所などが開発し、2017年11月27日から無償の利用サービスを始める」とのマスコミ報道があった。
この量子コンピューターは、光パルスの位相を量子ビットとする「量子ニューラルネットワーク(QNN)」と呼ばれる。
しかし、その後、研究者などから「QNNは量子コンピュータと言えるのか」との疑義があがり、ついに内閣府はQNNを量子コンピュータと呼ぶことを止めた。
止めた理由は、量子コンピュータの定義そのものが定まっていないこと、およびQNNには集積回路を使っている部分があること、理論実証がまだ不十分、など・・とのことである。
量子コンピュータはその定義が曖昧、すなわちジャーゴンとのことだが、これは量子コンピュータに限った話ではない。ビッグデータやIoTだって定義は曖昧だ。それにもかかわらずマスコミも一般の人たちも、今や普通に使っている。ジャーゴンに慣れっこになっているIT業界の人間としては、何を今さら感がある。
日経コンピュータ誌によれば、量子コンピュータの定義として、
①1つの量子系(量子ビット)が同時に複数の量子状態を取れ、変数として扱える
②複数の量子系が取る状態に量子的な相関がある
③量子的な効果による演算の加速がみられる
④特定の演算について、古典コンピュータの最速機よりも高速に演算できる(量子超越性)
⑤デジタルコンピュータの上位互換機としてあらゆる演算を行える(万能量子コンピュータ)
があり、一般に計算機科学の研究者は④以上でないと「量子コンピュータ」とは認めない傾向が強いそうである。


2018年5月20日
慶應義塾大学とIBMは2018年5月17日、慶大の理工学部矢上キャンパスの「量子コンピューティングセンター」内に「IBM Qネットワークハブ」を開設すると発表した。
「IBM Q」は、米ニューヨーク州のIBM Thomas J. Watson Research Center(トーマス・J・ワトソン研究所)に設置された20量子ビットの汎用量子コンピューティングシステム(量子ゲート方式のコンピュータ)である。
慶大の「IBM Qネットワークハブ」は、クラウド経由で「IBM Q」と接続し、国内では唯一IBM Qに直接アクセスできる研究拠点となる。ハブ機関は同大の他、IBM Research、オークリッジ国立研究所、オックスフォード大学、ノースカロライナ州立大学、メルボルン大学の5カ所にある。
なお、IBMは次世代のIBM Qシステムとなる50量子ビットのプロトタイププロセッサを開発中で、IBM Q Networkでも提供する予定だ。(出典:ITmedia 2018年05月18日)


2019年10月追記:Googleが「量子超越性の達成」を発表

2019年10月24日の日経新聞(電子版)に、「Googleの「量子超越」 AIしのぐ技術革新の衝撃」というタイトルの記事が出ていた。この記事によると、米グーグルが23日、開発中のマシンで「量子超越」を達成したと発表した(量子超越とは、現在のスーパーコンピュータを超える性能のこと)。
記事はさらに、「人工知能(AI)をしのぐ技術革新で、将来、想像もつかないインパクトをわたしたちに与えるだろう。」と続けている。
これに対して、米IBMは、グーグルの発表は大げさすぎると批判しているようだ。富士通研究所も同じような見方をしている。日経ビジネスの記事によると、「「大きな成果だが、従来の延長線上だと思っている。汎用的なコンピューターとして使えるようになるまでにはまだまだ時間がかかる」としている。
グーグルが開発したのは、「量子ゲート方式」の量子コンピュータで、53量子ビットを達成したようだ。量子ゲート方式は、本ブログ記事でも紹介したように、従来から研究・開発が進められている分野であり、IBM、マイクロソフト、国内では富士通やNECなどがしのぎを削っている分野だから、少々騒ぎ過ぎとの指摘はその通りだと感じる。
さらに富士通総研は、「先行するグーグルでも、汎用的に使える量子コンピューターの実現は10年先とみる」としている。
野村総研の「ITロードマップ 2019年版」でも、汎用量子コンピュータの実現は今後10年以上先になるだろうと予想している。

その後の情報を加味すると、グーグルが開発したのは54量子ビットを搭載する新量子プロセッサー「Sycamore(シカモア)」である。また、エラー訂正機能を持たないNISQと呼ばれる量子コンピュータである(NISQコンピュータは、ノイズの影響を排除しない、すなわちノイズの影響によって計算誤差が発生しやすいが、同時並列計算を行える量子コンピュータである)。

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