2015年 4月

最初に著者である鈴木大拙氏について触れておく。
鈴木大拙氏は明治3年の生まれで、本名は貞太郎(ていたろう)。鎌倉円覚寺の釈宗演師について参禅し、26歳の時に「無字」の公安を透り見性を成就、大拙の居士号を授けられた。西田幾多郎、藤岡作太郎は同郷の友人であり、学習院で英語を教えていた時の教え子に柳宗悦、松方三郎がいる。(柳宗悦についてはこちらを参照
27歳で渡米し老子の道徳経を翻訳出版、その後コロンビア大学の客員教授に招かれて仏教思想の授業を行うなど、ニューヨークを拠点に米国に仏教思想、禅思想を広めた。また、ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などでも講義を行なっている。
41歳の時にビアトリス・レーンと国際結婚をしている。氏の邦文著作は百巻を超え、外国語による著作も30巻を超えるそうだ。
昨今グローバル人材の育成ということが頻りに言われるが、鈴木大拙氏はまさにグローバルに活躍された国際人である。
昭和41年(1966)95歳で亡くなった。来年(2016年)は没後50年という節目の年になる。

本書の表題にある「霊性」という言葉からは、心霊や霊魂など、何やら神秘的なものを連想するかもしれないがそうではない。
本書において霊性的自覚とは、仏教でいうところの「見性」や「悟り」と呼ばれるものを指している。従って、本書の内容を正確に理解するには見性悟道の経験が必要になると思うのだが、残念ながら私にはそのような経験はない。
よって、本記事の中には私の理解不足や誤解があるかもしれない。その点はご容赦下さい。
本書の概要を知りたい方は、本書(岩波文庫版)の巻末にある篠田英雄氏による解説を読むのが手っ取り早いだろう。内容が的確に、且つ簡潔にまとめられている。

あらためて、「霊性」について本書には次の記載がある。
「精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智である」
これは、分別すなわち主観と客観の2元対立を超越した、無分別智として霊性が顕現するということである。本書では霊性について別の表現、超個己と個己との関係性で語られている個所もある。超個己とは「超個の人」のことであり、臨済の「一無位の真人」に相当する。(注)
「個己である自分を捨て、超個己の霊性に目覚めると、そこに信が確立する。それが弥陀を頼むことであるというのは、頼まれる弥陀と頼む自分とが2つにならないで、自分が自分を頼むということでなくてはならぬ。或いは弥陀が弥陀自らの存在に覚醒すると言っても良い」

歴史的にみると、日本的霊性は鎌倉時代に初めて覚醒したという。そしてそれは浄土系思想と禅において最も純粋な姿で表出した。鎌倉時代以前の仏教は上層階級で概念的に理解されてきたに過ぎなかった。それが鎌倉時代になって、浄土系思想では親鸞聖人の絶対他力の思想において日本的霊性が露わになった。浄土系思想は武士階級や農民の間にも広がり、文字通り地に足がついた宗教として普及したわけだ。

昨年(2014年)はディズニー・アニメ「アナと雪の女王」が大ヒットし、その主題歌にある「ありのままの」というフレーズがたいそう流行った。しかし、真の「ありのまま」とはそれほど簡単に成就できるものではないようだ。真のありのままとは真如であろう。
「”ある”が”ある”でないということがあって、それが”あるがままに還るとき、それが本来の”あるがままのある”である」
「”あるがままのある”に対して、ひとたびはそれが強く否定されて、”ある”が”ない”であるということにならなければならない。感性的または情性的直覚が霊性的直覚に入る途は、否定のほかにないのである」

著者は妙好人に関する論考にも多くのページを割いている。妙好人とは、浄土系信者の中でも特に信仰に厚く徳行に富んでいる人のことであり、主に無学であっても地に足を付けて労働する農民などを指している。
著者は代表的な妙好人として、越中赤尾(富山県)の道宗、石見の国(島根県)の浅原才市をあげている。特に浅原才市については、その境地を趙州和尚と比較するほど絶賛している。
「才市は悟道の達人であった。彼は禅者のようにお悟りを振り回さない」
「超個己の人が個己の意識を突き破って、自分はここにいたぞと絶叫しなければならぬのである。この絶叫が霊性的直覚である。南無阿弥陀仏の自覚である。才市の歌はすべてこの自覚のもとになっている」

柳宗悦氏がその著書「南無阿弥陀仏」のなかで、日本的霊性は名著であるが一遍上人に言及していない点が欠点である旨を記述しているが、本書には少しだけ一遍上人の記述があった。
「才市の歌は(歌というべきものかわからぬが、とにかく彼の吐出底は)、一遍上人語録でも読むようである」
浅原才市の境地は一遍上人のそれと変わらない程の高みに達していたということだろう。

本書には神道についての記載もあるが少々歯切れが悪く、趣旨も明確に読み取れない部分がある。解説を読むと、どうやら戦時中の厳重な検閲を警戒してのことらしい。
著者は、「神道が戦前戦中に思想的に逸脱し、誤れる世界観の実現に狂奔する当時の政治および軍部と結託して、日本の進路を世界の大勢から逸らした所以を指摘して、これを激しく非難した」とある。歴史上、政治と宗教が結びついて悪い方向に進むという事象は、日本に限らずフランスなどでも起きたことであり、宗教を真に理解することの困難さをあらためて痛感する。


(注)

「臨済録」に、「赤肉団上に一無位の真人あって、常に汝等諸人の面目より出入する」とある。一無位の真人とは、いかなる枠にもはまらず、一切の範疇を超えた自由人のことで、臨済禅の代名詞となっている。(入矢義高訳注より抜粋)

鈴木大拙の生涯と思想を分かりやすく解説したものに、秋月龍珉「鈴木大拙」(講談社学術文庫)がある。
この本のなかに「「即非」というのも「如」というのも、「無位の真人」といっても、ただこの「不説底」の表現にほかならない。先生(鈴木大拙)の思想を理解しようと思う者は、その外の言葉にとらわれないで、内にある先生のこの願心にまず思いを致さねばなりません。そしてその願の源泉 一字不説底の体験そのものに直参して、そこから1つ1つの言葉の真意を読み取るのでなければなりません」とある。
また、「鈴木先生は、禅はある意味で「無位の真人」でつきている、といわれる」との解説がある。

 

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