2015年 6月

ローレンス・クラウス著「宇宙が始まる前には何があったのか?」によれば、宇宙は「無」から生じた可能性が高いそうである。
この話題に入る前に、まず本書において「無」とは何かを明確にしておく必要がある。「無」とは、空間も時間も存在しない状態のことなのだろうか? 空間や時間が存在しないとして、物理法則はどうなのか? 空間も時間も、そして物理法則すら存在しない文字通り何もない状態(無)から物質は生じ得るのか?宇宙が始まる前には何があったのか
本書によれば答えはYesである。著者は多宇宙(マルチバース)に肯定的な立場である。すなわち、我々の宇宙の他にも沢山の宇宙が存在するとする立場である。我々の宇宙が無から生じたとき、「たまたま」我々の宇宙で観測される物理法則も一緒に生じたという。そして、別の宇宙には別の物理法則が存在する可能性がある。

何も存在しない無の状態から、どのようにして物質が生まれるのか?
「空っぽの空間の中のわずかな密度ゆらぎが、今日の宇宙で観測されるあらゆる構造の種となった。われわれ自身も、そしてわれわれが目にするすべてのものも、時間が始まって間もないインフレーション期に、本質的には何もないものの中で起こった量子ゆらぎから生じたのである」
「高温高密度のビッグバンの時期には、もともと物質と反物質が同じだけ存在していたのだが、ある量子的なプロセスにより、物質の方が反物質よりもわずかに多くなるという小さな非対称が生じた。そのおかげで『何もないところから、何かが生じる』ことができた」
「量子重力は、宇宙は無から生じても良いということを教えてくれるだけでなく、むしろ宇宙が生じずにはすまないということを示しているように見える。『何もない』(空間も時間もない)状態は不安定なのだ」

本書では度々宗教(特に神)と科学との対立が書かれている。著者は「宇宙には神もなければ目的もないと断固主張するのが無神論者だとすれば、私は無神論者ではない。・・・しかしそんな私にも、神が存在するような宇宙には住みたくないということは断言できる。私は反神論者なのである」といって憚らない。
(われわれ日本人には)著者が神に固執する意味や、科学と宗教が両立しないと主張する意味が、今ひとつピンと来ない。キリスト教などの一神教を文化の背景に持つ欧米と、汎神論的な東洋の文化との差であろうか? (注)
東洋思想から見ると、無から有が生じるという論理はそれほど突飛ではない。むしろ類似性(親和性)が高いともいえる。
唐代道教や老子では、天地のはじめ(宇宙のはじめ)を「元気」または、「太一」、「太極」、「道」と表現しており、これは北宋以降の新儒学、特に朱子の理気説における「気」へと引き継がれていく。
麥谷邦夫氏による「淮南子」の解説のなかに、宇宙の始源に関して以下の要約がみられる。
「「始め」が有り、その「始めが有る」以前の「始めの始め」が有り、その「始めの始めが有る」以前の「始めの始めの始め」が有る。
また「有」があり、「有」以前の「無」があり、その「無が有る」以前の「無の無」があり、その「無の無が有る」以前の「無の無の無」がある。
「始め」とは気が立ち込めて今にも弾けそうだが、まだ何の形体もなく、物類を成すに至っていない状態。「始めの始め」とは天地陰陽の気が混じり合い、宇宙の間に行き渡っているが、まだ何の兆しも成すに至っていない状態。「始めの始めの始め」とは、天地は個別に気を孕んで混じり合わず、虚無寂漠としてかすかな気配すらすらなく、限りない暗黒の中に静まっている状態。・・・・」
つまるところ、宇宙の根源には「道」があり、そこから空間と時間が生じたと説いている。

大乗仏教の中核には「空」の思想がある。空の思想を哲学的に基礎づけたのは竜樹(ナーガールジュナ)である。般若心経に色即是空という有名な語句がある。「色」とは物質的現象として存在するもの、形のあるもの、変化するものを指している。一方の「空」は、シューニヤターの訳で、原意は「何もない状態」である。
空はまた、インド数学ではゼロを意味する。物質的存在(色)は互いに関係しあいつつ変化しているのであるから、現象としては有っても、実体は「空」であると考えられた。ここで、なぜ「無」ではなくて「空」なのか、という点であるが、これは「無」が「有」に対立する概念だからだろう。仏教思想は二項対立的なものの見方を超越しているから、有に対立する無ではなく、空としたと考えられる。

少し横道にそれるが、数字のゼロ(零)の観念は、もともとインド人が考えたものである。零のことをサンスクリッド語で「シューニヤ」といい、これが仏教哲学に取り入れられて空の哲学になる。空と零は同じ「シューニヤ」という語で表現する。インド人の数字がのちに西へ伝えられ、アラビア人を経由して西洋に入った。今日アラビア数字と呼ばれるいるが、もとはインド人が考え出したインド数字である。(中村元「東洋のこころ」より)

このように、何もない状態が「ゼロ(零)」や「無」、あるいは「空」であると考えるならば、東洋思想と量子力学の知見は類似していると感じた次第である。


(注)
仏教思想を意識して東洋は汎神論的と書いたが、実のところはそれほど単純でない。
神塚淑子氏の論文「有神と無神」によれば、
「天を人格神的な至上神とみなし、人間世界全般に対して天が目的と意思を持って関与していると考えるのは有神論の立場であり、一方、天は自然界の法則性ないしは自然の摂理であって神秘的な要素は含まないと考えるのは無神論の立場である」
「春秋戦国時代の思想家たちの天のとらえ方はさまざまである。・・・墨子ははっきりとした有神論の立場に立っている。・・・墨子の有神論とは正反対に、天の人格神的な性格を否定して無神論を主張したのは荀子である。」
「無神論の側は気の思想を根拠に天の物質性を強調するとともに、無為自然の思想に基づき天の有意思性を否定するところに特徴がある」
この無為自然に着目すると、老荘思想や禅思想は無神論的ともいえるのではなかろうか・・・。


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