2052年の予測 その3:進化の木の第3の開花
本書(ヨルゲン・ランダース「2052今後40年後のグローバル予測」)では、未来予測の一つとしてジョナサン・ロー氏の「進化の木の3番目の開花」という論考が紹介されているのだが、さすがにこれは少々荒唐無稽である。 進化の木の3番目の開花とは何か? 進化の木の1番目の開花は、人類の出現と言語の発明である。 カンブリア紀に、カンブリア大爆発と呼ばれる生物の爆発的な進化が起き、生命の木に多くの枝が出来た。 その後も生命の木は枝分かれを続け、やがて1つの枝に人類が誕生した。 人類は言語を発明し、進化の木に花を咲かせた。 進化の木の2番目の開花は、文化の爆発である。 言語により文化が生まれるが、言語(文化)も進化の木と同じように枝分かれして、多種多様な文化が育っていった。 現在世界では7,000あまりの言語が話されているという。 しかし、この文化の多様性が今や失われつつある。 世界の人口の半分は25の言語の何れかを話している。 文化の多様性が失われる1つの要因がグローバル化の進展である。 進化の木の3番目の開花は、「コンピュータ文化」である。 ジョナサン・ロー氏が描くコンピュータ文化とは、コンピュータ自身がプログラムを作成し、作成したプログラムを進化させる世界である。種の進化と同じように、プログラムが作成した数々のプログラムが生存競争を繰り広げ、ある目的に対して、優秀なプログラムだけが生き残る。 コンピュータは、コンピュータ自身を設計するようになり、人間が設計したコンピュータを凌駕する。 さらに、コンピュータは人工知能を進化させて意識さえも進化させる。 このコンピュータ文化に対して、本書の著者は「自己改善するコンピュータプログラムというアイデアは、言われてみれば確かにあり得ることで、・・・・なぜこれまで思いつかなかったのか不思議に思える」と評している。 しかし、プログラムを進化させるアイデアや、自己修復するコンピュータなどのアイデアは、かなり昔からあったはずである。コンピューターの中でランダムに突然変異を発生させ、種の進化を模して優秀なプログラムが生き残るというアイデアもあった。 また、近年の人工知能の分野では、膨大なデータから最適なモデル(数式)をコンピューター自身が作り出す「機械学習」が注目されている。(日経コンピュータ1月9日号に特集が掲載されている) 機械学習の典型的な例にコンピューター将棋がある。コンピュータ将棋では、コンピューターにプロの棋士の棋譜データーを大量に読み込ませる。コンピューターはそのデーターを使用して、最適なモデル(数式)になるようにチューニングを行う。 これは、人間が自然界の事象から法則を導き、導出した法則が正しいか、いろいろな事象に当てはめて検証する様に似ている。 少々話が逸れるが、機械学習の仕組みから推測できるように、昨今話題のデーター・サイエンティストの仕事なども、その作業の大半はコンピューターの仕事に置き換わると考えられる。 「コンピュータ文化」と似たような話に、コンピューターが人間を超える日、という類の話もある。 この種の話で論点になるのは、多分、コンピュータを「何の目的に使うのか」という点と、人間とコンピュータの相違点であろう。 人間とコンピュータの相違点は色々とあげることができる。 人間には死があり、それが個人の成長において、あるいは物事を遂行する上で、時間的な制約条件となる。 人間には本能がある。食欲や性欲を持ったコンピュータが作れたとしても、一体何の役に立つのか分からない。 人間にはそれぞれ個性がある。個性を持ったコンピュータが出来たとしても、一体何の役に立つのか分からない。 人間は必ずしも論理的ではない(人間の心理はアンビバレントな面を持つ)が、コンピュータは基本的には論理的である。(但し、量子コンピューターは、愛(1)と憎しみ(0)のような、相反する状態を同時に持てるそうだ) ・・・結局のところ、漠然と人間とコンピュータとを比較しても意味がない。 時々、意識や感情を持つコンピュータを作ることは可能か、というSFのような話が話題になるが、人間の持つ感情や、思想、宗教などは、死や本能に由来する部分があると思われる。また、アンビバレントな面があるからこそ複雑な感情や、それを表現する文化(言語や芸術)が発達するのだと思われる。 「コンピュータ文化」という発想は、SFとしては面白いが、それが可能なのかいささか疑問であるし、もし可能であったとしても、それが人間にとって何の役に立つのかが良く分からない。 |