義江彰夫「神仏習合」
現代の日本の宗教事情を称して無宗教と称することがあるが、それでも神社や寺院は全国にたくさんあり、厄払いや祭礼、結婚式、お盆や墓参り、葬式など私たちの日常と密接に関連している。 義江彰夫著「神仏習合」は、日本の歴史全体の中で神仏習合の意義を考察した本である。 神仏習合とは、日本古来の神祇信仰と、外来宗教である仏教が、複雑なかたちで結合し、独特な信仰の複合体を築いたものをいう。 本書は、神仏習合の始まりから完成段階に至る15世紀ころまでの、神仏習合の表出形式とその成り立ちの意味を論じたものである。 歴史的にみると、これ以降は神仏習合ではなく、むしろ神仏分離、国家神道へと流れが変わっていくわけだが、本書ではこの部分は論じられていない。(神仏習合がテーマであり、神仏分離はテーマの範囲外というわけだ) 神仏習合の始まり。それは、「8世紀後半から9世紀前半にかけて、全国いたるところでその地域の大神として人々の信仰を集めていた神々が、次々に神であることの苦しさを訴え、その苦境から脱出するために、神の身を離れ(神身離脱)、仏教に帰依することを求めるようになってきた」ことに始まる。 日本古来の神々が仏教に帰依するというのは少々奇異な話であるが、全国の神々を束ねて全国統治をゆるぎないものにしようとしていた律令国家にとって、これは重大な事件であった。 このような神祇信仰からの動きに対して、仏教側はこれを好機ととらえ的確に対応していく。 「遊行僧による神々の仏教帰依の運動がはじまり、各地に神宮寺が建造された。」 「神宮寺とは、仏教に帰依して仏になろうとする神々の願いを実現する場として成立した寺である。」 この神のための寺である神宮寺の建立は全国的な広がりを見せ、ついには「皇室祖神を祀る伊勢神宮さえ、766年までには神宮寺を得る」までに至ったという。 仏になろうとする神の告白、そして神宮寺建設に至る変遷にはいかなる背景があったのだろうか? 著者は「それは、地方豪族たちが仕組んだ可能性が極めて高い」と言う。背後にある要因は「神を背負って支配をしてきた地方豪族が、全国いたるところで行き詰まりに直面し、仏教にその打開の道を見出し始めた時代であった」からだという。 さらに、「神宮寺は、普遍宗教としての仏教と、基層信仰としての神祇信仰が、各々の独自の信仰と教理体系を維持したままで、開かれた系で結ばれたという、日本独特の宗教構造のあり方を示している」という。 神仏習合の最終段階は、「本地垂迹説」と「中世日本紀」である。 「本地垂迹説とは、日本各地の神社に祀られた神々を、仏教の神仏が仮の姿をとって現われたものと理解するもので、平安後期から中世をとおして日本を覆った」とされる。 中世日本紀とは、「古事記」「日本書紀」の神々を本地垂迹説で説明しようとするものである。 「王権神祇信仰の拠りどころである記紀神話を仏教とりわけ密教的に解釈し直して、仏教の世界に全面的に取り込もうとする営みとして生まれてくるものである。」 「本地垂迹説と中世日本紀は、どちらも仏教のイニシアチブによる神祇信仰の抱き込みを示すものであり、神仏習合が第4段階ともいうべき新しい段階に入ったことを告げるものである。」 「13世紀後半から15世紀にかけての時代は、全国の主な神社がそれぞれの立場から記紀神話を密教化していく時代であり、いわゆる両部神道はその論理の結実である。」 |