江戸六阿弥陀(上)
江戸時代、春秋の彼岸に六ヶ寺の阿弥陀様を詣でる六阿弥陀詣が流行したという。 六阿弥陀の由来に関して、性翁寺のホームページには「神亀2年(725年)、この地に居住の足立之荘司宮城宰相が一人の娘「足立姫」と下女12人水死の難に遭った。父・荘司は悲嘆のあまり諸国廻行に出て熊野権現より霊木を授かり、海中に投げ入れると、霊木は当処へ流れ着いていた。(旧来、熊の木の地名あり) この霊木を当地に行化の行基菩薩の御手で、六道流転化益に当たって六体の阿弥陀仏を彫刻し、六つの村里に安置して13人亡女子のため、また末代衆生利益のためとしたのが六阿弥陀の始まりである。」とある。 なお、足立姫の伝説は足立区のホームページにも記載があるが、その内容は寺によって異なり、幾つかのバリエーションがあるようだ。
|
大まかな地図でコースの細部までは分からないが、西新井大師からスタートしているようである。今回はおおよそこの地図に従って歩いたが、周辺の名所にも立ち寄っている。江戸時代は丸一日かけて巡拝したようだが、体力にあわせて2~3日に分けて歩くのが良いと思われる。
以下訪問順に ①木余り:性翁寺 ②2番:恵明寺 ③1番:西福寺 ④木残り:昌林寺 ⑤3番:無量寺 ⑥4番:与楽寺
⑦5番:常楽院(別院) ⑧6番:常光寺 なお、常光寺の現地説明板には巡拝順路が記載されている。それによると1番西福寺からはじまり順番通りになっているのだが、この場合の通り道は不詳(豊島から足立へ、そしてまた豊島へ戻る順路になりそうだが)。 |
西新井大師をスタート
正式名称は五智山遍照院總持寺
空海(弘法大師)により、天長3年(826年)に創建された。 境内には弘法大師によってもたらされたとされる井戸がある。この井戸が本堂の西側にあったことから西新井とよばれるようになった。 |
日暮里舎人ライナーの高野駅方面に向かう途中に「あみだ橋」交差点がある。特に六阿弥陀と関係があるわけではない(と思う)が、阿弥陀つながりで。
|
同じく阿弥陀つながりで。
高野駅手前にある吉祥院境外仏堂阿弥陀堂。 |
木余り:性翁寺
性翁寺のホームページには、「(六体の阿弥陀仏を彫った後の)余り木を使用して(足立姫と下女12人の)成仏の御影として阿弥陀一体を刻して、荘司屋敷の傍らに草庵を建立して安置したのが当寺開創であり、木余り如来の由縁である。」とある。 |
足立姫の墓
性翁寺には足立姫の墓がある。 |
|
第1番:西福寺
西福寺の仁王門は中華風(唐風?)の鮮やかな色使いである。 門柱に絡む龍が凝った造りで面白い。龍の口には明珠あり。
|
西福寺境内に鎮座する阿弥陀如来露座大仏
仁王門と同じく鮮やかな極彩色 |
西ヶ原一里塚
日本橋から日光まで続く日光御成道の二里目の一里塚。徳川時代に設置されたままの旧位置を留めている。 大正時代、道路改修工事にともない撤去されそうになったが、実業家の渋沢栄一等を中心とする地元住民の運動によって保存されるに至った。 |
木残り:補陀山昌林寺
本尊の聖観音像は、行基が江戸六阿弥陀を彫刻した末木(うらき)を使用して制作したことから、末木の観音と呼ばれたようだ。 応永8年(1401)に足利持氏が再建したが、明治時代の廃仏毀釈で一時期荒廃したようである。 |
第3番:無量寺
本堂の正面には、平安時代後期に造られたといわれる阿弥陀如来坐像が安置されている。 阿弥陀如来坐像の右手には、本尊である不動明王像が安置されている。 言い伝えによれば、ある晩、忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝つかまったことから「足止め不動」として信仰されるようになった。 |
無量寺の隣に旧古河庭園がある。
春と秋のバラが咲く時期は大勢の見物客で賑わう。 |
江戸六阿弥陀(下)へ続く |