北原進「百万都市江戸の生活」

2023年8月27日

江戸時代の街の風景や生活様式が分かり、文化の匂いが感じられ、そして何より気軽に読める点が良い。百万都市江戸の生活
本書は、「大酒、大食いの記録」、「数字の符丁」など、ちょっと面白いトピックをあげ、それについての解説や関連文献からの引用を示すという構成である。従って、読者は興味のあるトピックを拾い読みしても楽しめる。
本書の中から、江戸の概略と水事情に関するトピック、通貨の数え方に関するトピックを引用して紹介する。
江戸の人口は古くから、一口に約百万といわれていた。そして、その半数50万は武家であった。江戸は本質的に政治家・官僚を中心とした武家の都である。江戸の都市としての基本的な性格は、武家のための消費都市という点にある。
土地の配分であるが、江戸の地の7割方は武家地であった。残る3割のうち半分は寺社で、一般庶民は残り15%の面積に詰め込まれていた。庶民の多くは、いわゆる下町を中心に長屋住まいをしていたから、その人口密度は自ずと高くなる。だいたい3坪(6畳)ほどの貸間に平均3.8人が住んでいたようである。
長屋が中庭を取り囲むように建っていて、中庭には共同便所とごみ溜めがあり、そのそばに共同井戸がある、というのが長屋の配置の一例である。
どう考えても清潔とは言い難いから、流行病の発生源が随所にあった。また、このような長屋が続く街は、火事に対して極めて弱い形態であった。
江戸百万の人口の男女比率であるが、享保-延享期(1730~40年代)では男6に対して女4で、圧倒的に男が多かった。火事と喧嘩が江戸の華であるというのも、男女比率が極端に違い、潤いのない町であったことにもよる。さらに、吉原をはじめ公認・非公認を問わず遊郭街が発達したのも、この男女比率が一つの要因であった。

江戸の水事情

「お茶の水」は、このあたりが深い渓谷をなしていて、名水が湧き出ていたことにちなんでつけられた地名である。飯田橋も橋の名前。しかし水道橋の方は、実は人が渡れる橋ではなくて、上水道が江戸御府内に向かって、神田川を渡っていたところからつけられた。つまり水道の橋であった。
銀座や日本橋のあたりにも、かつては多くの井戸があった。江戸の下町は、もともと遠浅の海を埋め立てて造成した土地だから、掘ればすぐ地下水面に達したけれど、ほとんど飲用には適さなかったという。
中には”白木屋の水”のような名水もあったけれど、これは例外的な存在であった。

「名水白木屋の井戸」の標石(at COREDO日本橋)
「名水白木屋の井戸」の標石(at COREDO日本橋)

白木屋の名水に関して、東京都教育委員会のWebサイトには以下の説明がある。
「日本橋の南側にあった白木屋は近江商人大村彦太郎の創業で、日本橋北側の越後屋と並ぶ呉服の大店であった。白木屋2代目の彦太郎は正徳元年(1711)、日本橋周辺の水の悩みを解消するため店内に井戸を掘る。難工事のなか、一体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと言われている。以来、周辺住民のみならず広く「白木名水」とうたわれた。越前松平家では、この水で当主の病が治ったとして、明治維新まで毎朝汲み取りに行った。白木屋を継いだ東急百貨店日本橋店が平成11年(1999)に閉店し、白木名水は消失した。
観音像は浅草寺に安置され、「名水白木屋の井戸」の碑はCOREDO日本橋アネックス前の広場脇に移設された。」
お茶や湯を飲むための飲料水は、山の手の段丘から湧き出た水を、水売りがかついで売りに来た。しかし、日常の生活水をそれだけで賄えるわけはない。江戸が開府された当初は、赤坂の溜池が使われ、間もなく神田上水ができ、ついで玉川上水が引かれた。こちらは御城水とも呼ばれていて、本来は将軍や諸大名をはじめ、お武家様方が使うのが基本であった。

玉川上水(羽村堰)

政治の町であり、天下の城下町であった江戸の水道は、まず武家のための施設であった。
上水道は市中の道路の下を網の目のように隈なく張り巡らされた。上水の取水口から、新宿四谷の大木戸まで、武蔵野の村々の畑地を貫いて流れる水道の距離は約44キロ。
この上水の水は、必ずしも清潔であったわけではない。天保年間には行き倒れ人を放り込んだという記録がある。また、枡の底を泥鰌(どじょう)が動いたり、ハヤが勢いよく泳いでいることもあったそうだ。

江戸のお金

江戸時代のお金とその数え方がややこしい。
江戸時代の通貨には、金、銀、銭の3種類があったが、それぞれが別々の価値体系を持って併存していたという。いわば一国内に、ドル、ユーロ、マルクが流通しているようなものだそうだ。この3貨の間には一応の公定レートが定められていたが、相場は毎日変動していたから、両替商や投機商人が時々大儲けをする機会にありついたという。(外貨ではないが)今どきのFX投機と同じようなものが既にあったということだろう。
金貨は4朱が1分、4分が1両の4進法であった。しかし、両以上は10進法である。
銭は基本10進法のようだが、96文をもって100文とする習慣があった。これは96銭(くろくせん)という正規の勘定法であったという。これは変形96進法とでもいうのだろうか

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