新緑がまぶしい季節、岩槻の主な見どころを巡り歩いた。
①慈恩寺
②玄奘三蔵霊骨塔
③元荒川の東宮歩道橋
④久伊豆神社
⑤岩槻城城門、裏門
⑥時の鐘
⑦遷喬館
詳細な散策ルートは東武鉄道のWebサイト「東武鉄道沿線ハイキング・ウォーキング・トレッキング情報」を参照されたい。
岩槻は、昭和29年(1954)岩槻市になり、平成17年(2005)さいたま市に編入され、さいたま市岩槻区となる。
「人形の街」として知られる城下町である。 |
華林山 最上院 慈恩寺
車が頻繁に往来する道が山門に迫り、さらに観音堂を大規模修繕中であることから少々騒がしい。
昔はさぞや静かで広大な寺院だっただろうと想像するが、今その面影は少ない。坂東三十三ヶ所観音霊場の十二番札所でもある古刹だが、少々残念である。 |
慈恩寺境内の藤棚は満開の一歩手前といったところであった |
大規模な改修工事が行われているが参拝は可能である。 |
田圃の間を歩いた先に玄奘三蔵の遺骨を納めた十三重の塔がある。
田植え前ののどかな風景だ。 |
中国から朝鮮半島、日本に伝わった仏教は、玄奘三蔵がインドから持ち帰り翻訳した経典が基になっていると言っても過言ではないだろう。その玄奘三蔵の遺骨がここに眠っているというのは、それがあまり知られていないという事実を含めて驚きである。
5月5日こどもの日に「玄奘祭(げんじょうさい)」が行われるようだ。 |
昭和17年12月、第二次世界大戦のさなか、南京を占領していた日本軍が石棺を発見した。日中両国の専門家による調査の結果、玄奘三蔵の頂骨であることが確認された。
頂骨は副葬品と共に南京政府に返還され、昭和19年南京玄武山に玄奘塔が完成した。
玄奘三蔵の遺骨は日本にも分骨され芝の増上寺に安置された。しかし、大戦の戦火を逃れるため、昭和19年ここ岩槻の慈恩寺に奉安されるに至った。
ここの遺骨は昭和30年に台湾に、昭和56年には奈良の薬師寺に分骨されたという。(出典は慈恩寺のWebサイト) |
元荒川は思いの外流量が多い。少しでも増水したら大変なことになるのではないかと心配になるほど川の土手が低い。 |
久伊豆神社は岩槻の総鎮守である。長い参道(写真の手前)を鉄道(東武野田線)が横切っている。 |
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境内にある鳥小屋では孔雀が羽を広げていた。 |
岩槻城址公園には、岩槻城の城門だと伝わる門がある。黒く塗られていることから黒門とも呼ばれる。
昭和45年(1970)にここに移転された。 |
同じく、岩槻城の裏門と伝わる門もある。 |
時の鐘は川越のシンボルが有名だが、ここ岩槻にもある。
現在の鐘は、享保5年(1720)に改鋳されたもので、江戸後期には1日12回撞かれていたそうだ。
さいたま市のWebサイトによれば、平成23年4月まで朝夕6時に鐘をついていたが、平成23年5月1日からは正午にも鐘をつくようになったようだ。 |
遷喬館は、岩槻藩士で儒学者の児玉南柯が寛政11年(1799)に私塾として開設したもの。その後、「勤学所」と改名して藩校となる。 |
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