樺山紘一「歴史のなかのからだ」
「心臓と血液」、「目と耳」、「骨と肉」、「脳と神経」、「腹と背」、「足と脚」、そのぞれの章で、著者は体の各機関について、歴史のなかの逸話、古今東西の物語などを引用しつつ、考察を深めていく。 著者は博覧強記である。といって堅い話ばかりではない。鬼太郎の目玉親父も登場するし、歌手の八代亜紀も登場する。著者は縦横無尽に話を展開する。 目と耳、その違いについて、たいていの人は深く考察したことなど(ほとんど)ないだろう。 著者は、目は能動的で耳は受動的である、と考察する。目は、水晶体の前面レンズを使って、遠近を調整する。しかし耳には焦点を合わせる能力がない。 耳は焦点を合わせなくとも、近くの音と遠くの音を同時に聞くことができ、そして遠近の判断も可能である。 目は、見たくないときは閉じることができるが、耳を閉じることはできない。(手で耳を塞ぐことはできるが、音を完全には遮断できない) 私たちは睡眠するときは目を閉じて視ることを拒絶できるが、聞くことは拒絶できない。このように耳は来たものを受容する器官だという。目のような能動性はない。 中国の格言に「耳を貴びて、目を賤しむ」というのがあるそうだ。中国の伝統思想の受動性、非活動性の現れだと著者は分析する。(近年の中国には当てはまらない気もするのだが) これに対して西欧精神は、ひたすらに、認識する意志的な目にこだわる。 目と耳が機能不全に陥ったとき、目の場合は「近い」といい耳の場合は「遠い」という。 このほかにも目と耳では用語法に違いがみられる。(例えば、目は凝らして見るが、耳は澄まして聞く) 著者がドイツの市街電車で体験した話が興味深い。 その電車は完全なワンマン制で、切符は停車場の自動販売機で買い、あとは勝手に乗って勝手に降りる。出口に小さな箱が置かれているので、降りる際に手元の切符を入れる。無券乗車をチェックする機構は全くないそうである。 いや、一つだけある。電車の扉に神の目が書かれているそうだ。 著者は小銭がなかったので一度だけ無賃乗車をした。降りるときに神の目と目があってしまった。その存在は前から知っていたが、その時ほど良心が傷んだことはないと語っている。 最後に「腹と背」からの話題を少し紹介しておこう。 背がつく熟語には、背徳、背信、背向、背反、などがある。背にはネガティブな意味が与えられていて、体の器官のなかでも冷遇されている部位である。 4足歩行の動物は腹を下にして、背中が体を守っている。人間は2足歩行したときから腹を前面に出さざるをえなくなった。すなわち、2足歩行の代償として大きなリスクを背負うことになった。戦闘の防具は腹の側を守るためのものがほとんどである。 「背に腹はかえられぬ」とは、緊急時には優先順位を遵守せよとの教えであるが、腹ほど大事なものを背では代用できないというわけである。 このように冷遇されている背中であるが、実は日本人は背を有効に使ってきたらしい。その好例が「おんぶ」である。世界中の諸民族のうち、子供を背中で運ぶのは、少なくとも3つあるそうだ。 アフリカのホッテントット族、中南米のインディオ、そして日本人。確かに昔の子供が、弟や妹を背中におぶっている姿はどこか懐かしさを感じさせる光景である。 最近はおんぶ紐ではなく、抱っこ紐も増えているようだが。 |
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