e-雑感

前坂俊之「太平洋戦争と新聞」(講談社学術文庫)に、爆弾三勇士の真実(軍国美談はこうして作られた)という逸話が載っている。
爆弾三勇士(あるいは肉弾三勇士)というのは、上海事変の最中、三人の工兵が点火した爆弾を身に着けて、中国軍が築いた鉄条網を破壊し、戦闘の突破口を開いた出来事である。戦死した三人の工兵の活躍は、関東軍の宣伝工作と、それに呼応した新聞メディアの誇大報道によって、彼らを軍神に祭り上げた。さらに新聞各社が各種イベントやキャンペーンを展開することで国民の愛国心と排外主義を煽った。 

三勇士のレリーフ

三勇士のレリーフ

三勇士の記事は昭和7年(1932)2月24日の紙面に掲載された。
「これぞ真の肉弾! 壮烈無比の爆死、志願して爆弾を身に着け鉄条網を破壊した三勇士」、「”帝国万歳”を叫んで我身は木っ端微塵、三工兵点火せる爆弾を抱き、鉄条網に躍り込む」、「肉弾で鉄条網を撃破す、点火した爆弾を身に着け、躍進した三人の一等兵、忠烈まさに粉骨砕身」、と勇ましく読者を鼓舞した。
この報道に国民は熱狂し、報道内容もヒートアップしていったようだ。
「まさしく『軍神』 -忠烈な肉弾三勇士に、『天皇陛下の上聞に達したい』、陸軍省では最高の恩賞」、「誉の三勇士、銅像、伝記の編纂、師団葬、国民をあげて感激の渦」、・・・・。
国民の熱狂は高まり、無名の兵士は軍神に祭り上げられ、壮絶な自爆死が美化された。新聞社は自ら遺族へ弔慰金を贈るとともに、国民から弔慰金を募集するキャンペーンを展開した。さらに、「爆弾三勇士の歌」の懸賞募集まで行った。
「毎日」の「爆弾三勇士の歌」に当選したのは与謝野鉄幹、「朝日」の「肉弾三勇士の歌」に当選したのは山田耕筰であった。反戦派の与謝野晶子の夫が懸賞歌に応募し、当選したことから「鉄幹、血迷う」と一部から批判が寄せられたそうだ。
プロパガンダに加担したのは新聞だけでない。映画では各社が肉弾三勇士の撮影を行っているし、文楽にも登場したという。”三勇士まげ”という女性の髪形が出現し、お菓子にも爆弾チョコレート、肉弾キャラメル、三勇士せんべいなどが作られたそうだ。

三勇士の美談は、新聞メディアが脚色し、誇大に表現することで作り上げられたものである。
実際、その後の現地取材では「少し大げさに騒ぎ過ぎる。特にあの3人だけを三勇士に祭り上げられては困る。・・・3人だけが特別に自分たちで自爆の決意をしたのではない。小隊長が強行突破を命令し、伍長が部下の第一組に事前に点火して持って行き、鉄条網の下へ突っ込んでくるよう命令したのだ。・・・3人のほかにこの任務で4人が戦死している。・・・」という話を聞いている。
また、同じ工作隊に属する一兵卒の証言を綴った文書があるという。その文書によると、導火線を短く切って、急いで走って行って素早く戻ってくる予定であった。それが3人が出かけて15メートルも行ったところで、つまずいたか弾丸に当たったかして1人が倒れ、それにつられて3人が皆倒れたらしい。3人は戻りかけたが、上官から叱咤され、鉄条網に突進したようだ。
著者はこの三勇士の章を次のように結んでいる。「太平洋戦争の終盤には日本軍は玉砕、特攻の散華を繰り返して戦死者の山を築くが、この三勇士のヒロイズムの延長線上にあった」

三勇士の事例は、軍部による戦意高揚のための宣伝工作とメディアへの圧力、等々現在とは時代背景が異なる。しかし、メディアが特定のニュースを恣意的に報道し、読者の認識や世論を特定の方向に導く事象は、今日でもよく見かける。読者としては、反対意見にも耳を傾け、冷静に客観的に判断することが肝要である(と、三勇士の教訓は教えている)。

Wikipediaによると、芝の青松寺に新田藤太郎作による三勇士の銅像が建てられたが、その後切り離され江下武二の像のみが残され、北川丞の像は長崎県北松浦郡佐々町にある三柱神社に移築されたそうである。
なお、靖国神社の石灯篭に三勇士のレリーフが刻まれている。

青松寺

青松寺

雑感のINDEX

Update

2017年11月
« 10月    
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930  

Navigation