2013年 2月 2日

伊藤野絵について調べていたら、辻潤に行き当たった。
伊藤野絵は、日本の婦人運動家として、また時代を先取した女性として有名である。
最初の夫である辻潤を捨てて、大杉栄の妻、愛人と四角関係を演じ、その後甘粕事件で憲兵隊に惨殺されるという、何とも壮絶な人生である。

辻潤については、日本のダダイスト、虚無僧姿で放浪し、精神病院への入退院を繰り返し、 最後は餓死したとある。こちらもなんだか凄い生き様である。絶望の書 ですぺら

辻潤がどのような人物なのか興味が湧き、氏のエッセー集(小品集と言うべきか)
「絶望の書・ですペら (講談社文芸文庫)」を読んだ。
正直なところ、何を言っているのかサッパリ分からない小文もあるが、 面白いエッセーやエピソードが 綴られていて、 思わず噴出してしまう場面も多々ある。
氏の人間性が如実に表現されており、実に面白い。
何を言っているのか分からない部分というのは、 多分私の知識が不足しているためである。
氏は自分をダメ人間であると本気で思っているようだが、小学生の頃からの読書好きで、 暇さえあれば読書をするというだけあって、非常な博識である。
私の知らない名前がポンポン飛び出てくる。 従って、こちらとしては時折ネットでウィキペディアなどを調べつつ読み進める羽目になる。
例えば、氏が最初に翻訳したロンブローゾの「天才論」。
ロンブローゾが唱えたのは、犯罪者には一定の身体的・精神的特徴が認められるという、生来的犯罪人説 だそうである。
現代においては否定される説であろうが、全部が間違いとは言えないかもしれない。
例えば、宮本武蔵の人相、骨相を見て、これは殺人者のものである、といった人がいるが、 この指摘は一面当たっているように思う。

辻潤の人間性について言えば、氏が愛読した老子(老荘思想)のごとく、何物にもとらわれず自由気儘、 言いたいことを文章にして、書きたい時に書く(が、めったに書く気にならなかったようである)、 風に吹かれて飄々と放浪する、その一方で、何のために生まれたのか、自分には文学が分からない、 など悩みが尽きない、そのような感じである。

思想的な面では、少年時代はキリスト教に入信するも、その後老荘思想や仏教に傾倒していく、 だがいずれも信仰できるまでには至らない、といった感じで悶々としていたようである。
しかし、晩年は諦観し心の平静を得たのかもしれない。
氏の諦観とはどのようなものだったのか、「水島流吉の覚書」から引用する。
「今では別に何を信じようとも考えていない。強いていえば、「自然」を信じているとでもいっておこう。
宇宙や人生や一切のことは到底人間の頭などでは解釈出来ぬものだ、というのが自分の信仰である。
自分は万物の霊長だなどどいう自惚れはケチリンも持ち合わせていない。
私は自分以外の生物を一度も軽蔑したことがなく、むしろかれらの方が人間以上に自然に生活していると、 時に羨望の念のおこることさえある。しかし、別段鳥にも虫にもなりたいとは思わない。」
この文章から窺い知れることは、真理や生死といった問題は、人間の知識や論理的思考によって 解明できるものではない、浅はかな考えを捨てて無心になり、自然の中に心身を投じている、 といったところか。
こう書くと随分堅苦しくなるが、辻潤の文章はユーモア(ブラックユーモアや自虐に近いものもある)に 溢れている。
人間臭く、風変わりなところがあるので、親交がある人は限られていたのではないかと想像する。
しかし、詩人の高橋新吉や萩原朔太郎とは相当に深い心の交流があったようである。
特に萩原朔太郎などは、辻潤にあてた手紙の中で、
「真に僕の好きな文学者は谷崎潤一郎と貴下との二人に尽きるようです。・・・思想上や感覚上で、 深く文学士の一致と友情を感ずるものは貴下の辻潤一人です」
と書いている。
この手紙を受け取った辻潤は、いたく感激し、「なんとなく自信を取り戻すことが出来そうである」、
と記している。

高橋新吉というのも興味深い人物である。
「ぷろむなあど・さんちまんたる」という小品の書き出しは、いきなり
「新吉がとうとう発狂した。恐らく彼は彼自身のダダを完成させたのかも知れない。 そして僕は、なぜまだ発狂しないでいるのか?」で始まる。
そして「彼(新吉)は箱根の強羅で一夜浅間の大鳴動を耳にして豁然として大悟したのだそうだ。」
と綴られている。その後、この大悟した尊者(新吉)の奇行振りが描かれていく。
「・・・彼(新吉)は二昼夜、そこの四角な格子の禅室で暮らしていたのだ。・・・・
親切な署の衛星係りは、既に尊者を松沢院の住職にすべく本庁へ交渉中のところだった。」
と冗談交じりに書いている。
しかし、この高橋新吉の晩年の著作をみると、 「臨済録」や「禅と文学」、「道元 その思想と行実」など禅への傾倒が顕著であることから、 大悟したという話もあながち嘘ではないのかもしれない。 (少なくとも本人はそう思っていたのだろう)

晩年の辻潤さて、ダダ(ダダイズム)とは何か?ということであるが、
「ぐりんぷす・DADA」から引用すると、
「ある仏教の中に私は次のような文句をある時発見しました。
何をダダと名づく、ダダはこれ大なり、心量広大にしてなお虚空の如し、辺畔なることなし、 また方円大小なし、また青黄赤白に非ず、また上下長短なし、・・・・世界のダダよく万物の色象を含む。・・・」
勝手に華厳経を改ざんしたものなのか否かは不明であるが、何物にも捉われない、何でもアリ、 絶対矛盾的自己同一のようなものと思われるが、結局のところ良く分からない。

辻潤の著作について、古書以外で入手可能なのは「絶望の書・ですペら (講談社文芸文庫)」のみであるが、 Amazonで検索したところkindle版が何点か0円で入手できるようである。
念のため、kindle版は0円であるが、kindle本体は購入しなくてはならないという陥穽がある。

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