2018年 11月

明治33年(1900年)、正法の仏典を求めて鎖国政策をとるチベットに単身で入国した僧がいた。その人が河口慧海であり、日本人として初めてチベット入りに成功した人物である。
チベットが外国に門戸を開いたのは1980年代のことだから、慧海が入国した当時のチベットは秘境といっても過言ではない。
河口慧海「チベット旅行記」には、慧海がチベット行きを決意した経緯や、その旅程で見聞したこと、そしてチベットの仏教事情や習俗などが詳細に描かれている。
私は本書を青空文庫で読んだのだが、慧海師の旅程が分かる地図があった方が理解が進む。地図がないと、慧海師がいったいどこを歩いているのか、さっぱり分からない。
特に往路はカイラス山、マナサルワ湖を礼拝するためにわざわざ遠回りをしているのだが、これなども地図を見ないと気が付かない。
幸い、講談社学術文庫として出版されているものには、巻末に「チベット旅行記地図」が付属しているから、これを参照すると良い。さらに、チベットの写真や歴史が書かれている書籍があると、チベットがどのようなところで、どのような歴史的背景があるのか、理解が深まるだろう。

本書にはチベットの習俗が書かれているのだが、随分と不潔な話や、多夫一妻制(サースンというらしい)のこと、チベット歴のこと、鳥葬など葬儀のこと、チベット仏教͡古派の堕落ぶり、など驚くべきことがたくさん書かれている。これって本当なの? と思うところもある。
実際のところ、他の書物「図説チベット歴史紀行」(ふくろうの本)を見ると、「しかし、慧海の旅行記には問題点も数多い。例えば、慧海はチベット人の信仰生活を、ひとしなみに盲信、淫し邪教と決めつけて非難しているが、このような見方は明治時代の日本人に普遍的に存在したアジア蔑視観によるもので、事実と反するものである」としている。
一方、講談社学術文庫版の「はじめに」は、慧海を知る方(同居していた親族の方)が書いたものであるが、「慧海の記述がまったく正確であったことが半世紀以上もたってから明らかになりました・・・」と記している。
これは昭和33年、川喜多次郎(KJ法の開発者としても有名)をリーダーとする探検隊が慧海と同じ道をたどってヒマラヤに行き、チベット旅行記の内容を検証したことを指している。
結局のところ本書の内容に関して、どこまでが事実なのか判然としないところもあるが、私は研究者ではないのであまり追求する気はない。ここでは「チベット旅行記」の内容を正として紹介する。
なお、慧海師は機知に富んだ人物だったようで、本書の文章は決して文学的とは思えないが、なかなか味のある文章であり、汚いことや危機に直面した場面なども結構面白おかしく書かれていたりする。

慧海はもともと黄檗宗の僧侶であった。黄檗宗は臨済宗、曹洞宗とならぶ日本の禅の一派である。
慧海は日本に伝わる漢文の経典が、同じ経典であっても漢訳時点でその内容に相当の相違があることに気付き、是非とも原典に当たらなければならない、と考えていた。
慧海が求めていたのは大乗の経典であり、その原典はもはやインドには無く、チベットにあることを知る。(小乗の経典はセイロンにあるそうだ)
慧海は、セイロンに留学しその後帰国していた釈興然師のもとで修学して、パーリ語の経典などを学ぶ。しかし、釈氏との意見の違いから袂を分かちチベット行きを決行する。
釈師が小乗こそ純正の仏教であるとの見解に対し、慧海はあくまでも大乗にこだわった。釈興然師がいうように、一般には、大乗仏教よりも小乗仏教の方がもともとの釈尊の教えに近いと言われている。
慧海が大乗にこだわったのは、衆生済度の信念からであったのだろう。

慧海は明治30年に大阪を出立してから、真っすぐにチベットに行ったわけではない。途中ダージリンに逗留し、サラット・チャンドラ・ダース師のもとでチベット語の勉強をしている。6か月~7か月勉強した結果、一通りのチベット語は話せるようになったという。
そのほか、ツァーラン村に1年滞在したり、そのほかでも度々逗留し、その土地の民の要望を受けて読経などを行った。ネパールやチベット、ブータンの人々は信仰心が厚く、読経のお礼に食べ物などを貰ったようで、文字通り乞食修行の旅でもあった。

驚くべきは、ブッタガヤでダンマパーラ居士にあった際、「あなたがチベットに行くなら、法王に釈迦牟尼仏の舎利をあげてもらいたい」といわれ、舎利を収めた銀製の塔などを託されたという話である。
これが本当の仏舎利ならば大変貴重なものであったろうと推測する。

チベットとネパールの国境である雪山の頂上に到達したのは、日本を出立してから3年後のことである。
道中は冷たい川を渡ったり、雪山で仮眠したり、強盗に襲われたり、雪山に生息する豹(本書によれば学名をフェリス・ユニガというらしいが、ユキヒョウのことだと思われる)の声に怯えたりと、多難を極めた。
この難事のなかで特にびっくりしたのが、来る日も来る日も水にありつけなかったときの出来事である。
やっと水のある所を見つけたと思ったら、その水が真っ赤だった。さらにその水を汲んだところ、細かな虫がウジウジしている。仕方がないので、その水を布で濾して飲んだところ、その味は極楽世界の甘露のごとしであったという・・・・(絶句)。

冬山登山の訓練をしたでもない慧海師がヒマラヤの雪峰を超えたというのも驚きである。
今と違い、装備や薬なども相当に貧弱だったろう。本書に登場する薬といえば、「宝丹」と「カンプラチンキ」、「丁子油」くらいしかない。
丁子油は薬ではないが、冷たい川を渡るときにこれを全身に塗って体温の低下を防いだ。雪の反射光で眼病を患ったり、空気の希薄な土地での長旅のせいで血塊を吐くこともあった。
それでも苦難ばかりではなかった。本書には大自然の美しさを描写した場面がたくさん出てくる。特にカイラス雪峰の七滝については「これだけの景色を見ただけでも種々な難儀をしてきた甲斐があると思いました」と記している。
また、ドーラギリーの谷間には仙人の国、即ち桃源郷(カンブータン)と呼ばれるところがあるという。

本書にはこの他にも仰天のエピソードがたくさん書かれているのだが、興味深いのはチベットに日本のマッチが輸入されていたということである。このマッチは大阪の土井亀太郎が製造したものらしい。
Webで画像検索してみると、マッチ箱にはヒンドゥー教の神や像がデザインされていたようだ。

チベットの仏教について、本書には古派と新教派があると記されている。また、サキャア派とカルマ派という宗派が記載されている。
他の書籍によると、後伝仏教の宗派にはサキャ派、カギュ派、ニンマ派、ゲルク派とがあるようだ。(カルマ派はカギュ派の分派)
このなかで現在主流なのはゲルク派だそうである。ダライ・ラマはゲルク派の転生活仏であり、観音菩薩の化身であるとされる。
慧海師が堕落していると書いているのは古派の方であり、男女の交合や肉食、飲酒も行われていたようで、日本における真言立川流との類似を指摘している。この点は研究者によって異論のあるところだと思われる。
一方の新教派は戒律を守り、日本における真言宗と一致していると述べている。
講談社学術文庫の「はじめに」によれば、その後の慧海師は僧籍を離れ、生涯在家の仏教徒として戒律を守る生活を送ったという。

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