2019年

私が生田長江の名前を知ったのは、島田清次郎の評伝を読んだ時である。大正8年(1919)、無名の新人であった島田清次郎の処女作「地上」が世に出ることができたのは、文芸評論家として名高い生田長江の推薦があったからである。そして「地上」が出版された直後、本書を高く評価したのが社会主義者の堺利彦である。堺利彦が本書を称賛した背景には、生田長江との交友関係があったようだ。
生田長江は社会主義者たちとの交流があったが、長江自身は社会主義者ではない。長江は、その著書「「近代」派と「超近代」派との戦い」のなかで次のように述べている。
「商業主義よりも重農主義を、都会よりも村落を、文明よりも文化を、西洋よりも東洋を、選び取ろうとする」
「婦人解放や、社会主義や、文明謳歌や、都会賛美や、専門主義や、器械崇拝や、科学万能などの如き近代思想は、これらの近代思想に根源中軸となっているところの実証主義的ならびに平等主義的傾向は、一口に言えば人性主義という近代精神近代主義は、もはや人類を向上させるよりも、むしろ堕落させ滅亡させることの方に役立っている」
長江は、資本主義に対しても社会主義に対しても批判的な、独自の思想を標榜していた。この長江の批判は現代の日本にも通じるところがあるようで興味深い。いまの日本は、人や企業が都会に集中して地方で過疎化が進む、効率が最優先される、科学万能な考えが大勢を占め、人文科学や東洋思想は影が薄れていくばかりである・・・。
私が生田長江に興味を持ったのは、その批判的精神だけでなく、氏がハンセン病を患いながらも、最後まで精力的に執筆活動を行っていたことにある。長江は人生の終盤、完全に視力を失っていたが、書生や娘のまり子に口述筆記をさせて文筆活動を続けていたようだ。 

評伝生田長江
荒波力「知の巨人 評伝生田長江」(白水社)は、生田長江の生涯と、長江を取り巻く人間模様を描いた書籍である。長江の活動と交友関係が、丹念な取材を通じて詳細に綴られている。著者である荒波氏が生田長江の評伝に取り組んだのも、長江がハンセン病と闘いながら、評論家として、脚本家として、そして作家として名を馳せたからだろう。
長江が活躍した明治時代~昭和の初めは、ハンセン病が業病といわれ、差別や偏見があからさまな時代である。長江も差別や偏見に晒されていただろう。しかし、長江の周りにいたのは、長江との交流を避ける人ばかりではなかった。与謝野晶子は、長江がハンセン病であることを知っていたが、少しも動じることがなく、終生長江と交友があった。荒波氏の評伝によれば、長江はかなり早い段階で与謝野晶子に病気のことを打ち明けていたようだ。
生田長江の著作のうち、現在入手できるものは数少ない。講談社の日本現代文学全集で、いくつかの評論が読める程度である。この文学全集には作品解説と年表も載っているが、ハンセン病に関することは書かれていない。長江が第一高等学校に入学した明治33年、評伝では、長江が自身の病気を自覚したのはこの頃であったろうと推測している。医療の専門家たちが、ハンセン病が遺伝性のものではなく、伝染病だと認識し始めていた時期である。(より正確に言えば、感染したからといって必ず発症するわけではない)
当時のハンセン病の治療薬といえば「大風子油」しかなく、これとて初期症状を緩和する程度の効能しかなかったようだ。(ハンセン病の特効薬にプロミンがある。日本でプロミンの合成に成功したのは戦後の昭和21年になってからである。これは東大教授・石館守三の手による。)
大正9年、長江は堺利彦とともに京阪講演旅行に出かけているが、この頃の長江は眉毛が抜けるなど、病気が顔に出るまでに進んでいたという。この頃の長江の家庭環境は、大正2年に長女・まり子が生まれ、大正6年には妻・藤尾が亡くなっている(享年31歳)。
大正12年ごろの長江を、今泉篤男は「当時の長江先生は、既に一肉塊と化した顔貌のうちに優しい温眼を覗かせながら釈迦伝を執筆しておられた」と記している。
昭和6年(1932)長江は過労が誘発する緑内障のために、わずかに残っていた左目の視力を失い、完全に失明した。この頃、ハンセン病患者を収容する国立療養所・長島愛生園が開所している(昭和5年)。
そして、昭和11年、長江は53年の生涯を閉じる。昭和12年、祖国浄化の名のもとに「無癩県運動」が各地で起こり、病者たちが各地の療養所に強制隔離されていった。

 

生田長江の思想や人間関係を簡潔に記しているのが、先に触れた日本現代文学全集にある、紅野敏郎「生田長江 入門」である。
「長江には、良かれ悪しかれ、文壇・論壇の主流となって時代を推し進めた、というようなところがなかった。むしろ、形成されつつある主流の思想に対して、いつもある種の批判を投げかける役割を自ら買って出ていた節がある。長江と自然主義、長江と白樺派、長江と教養派、長江と社会主義とのことさらな対応のなかに、長江の中核を見ることができよう」
「長江の周辺から、佐藤春夫、生田春月、島田清次郎、高群逸枝、伊福部隆輝、赤松月船、新島繁らが出たが、春夫を除けばすべて泥臭く、非文壇的要素に満ちた人々であったことは興味深い」
このなかで、例えば、赤松月船は曹洞宗の禅僧であるが、長江に師事して文学活動に進んでいる(その後、また僧籍に戻っている)。

長江は翻訳家としても活躍している。ニーチェの「ツァラトゥストラ」の翻訳を明治43年に、その後大正4年から、我が国では誰も成し遂げたことのない「ニーチェ全集」の翻訳に挑んでいる。また、大正2年にはダヌンチオの「死の勝利」を翻訳・刊行している。
「死の勝利」は、森田草平・平塚らいてうの心中未遂事件にも影響を与えたといわれている。森田草平はこの心中事件をテーマに「煤煙」を執筆し、この本は当時のベストセラーになったようだ。
なお、森田草平と生田長江は第一高等学校時代の同期生である。(さらに蛇足ではあるが、三島由紀夫も「死の勝利」の影響を受けていたといわれている)

長江は英訳の「資本論」を出版しているが、これに対して敵意を持っている人物がいた。その人が高畠素之である。  荒波力「知の巨人 評伝生田長江」 によれば、高畠は長江訳本に対して、誤訳の指摘や論戦を仕掛け、結果、長江の翻訳に止めを刺して初の「資本論」完訳者となったそうだ。
高畠は「生田長江君の癩病的資本論」という評論を発表したそうだが、これは今日であれば間違いなく非難を浴びるであろうタイトルである(今日ではちょっと考えられない)。

荒波力氏の評伝には島田清次郎に関することも書かれている。
「島田の発狂は、警視庁特高課によるでっち上げである。当時島田は革命思想家と見られていて、特高課は危険人物をこの機会に狂人に仕立て上げ、社会から葬ってしまおうと考えたものと思われる」
この点は、風野春樹「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」とは見解が相違している。

 

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