2019年 3月 10日

加能作次郎は明治末から昭和初にかけて作品を発表している。私は最初青空文庫で著作のいくつかを読んだが、講談社文芸文庫からも作品集が出ている。(但し、作品「厄年」は講談社文芸文庫には収録されていない)
年譜を見ると、加能は作品集「乳の匂い」を校正中の昭和16年、56才の時に急性肺炎で亡くなっている。加能は、明治18年に石川県志賀町に生まれる。父親は漁業を生業としていた。加能が1歳の時に実母が亡くなり、翌年父親は再婚している。
13才の時、京都四条で宿屋と薬屋を営む伯父を頼って故郷を出奔する。叔父の許で丁稚として働いていたが、その後、叔父が亡くなってからは代書人の書生や弁護士の事務員として働き、その傍らで夜学校に通った。
その後故郷に戻り尋常小学校で教鞭をとるが、文学への志おさえがたく上京。早稲田大学で学びながら作品を発表している。

加能作次郎の作品は、故郷能登の漁村や、叔父のもとで働いていた京都を舞台にした作品が多く、その多くは自身の体験(私小説)だと思われる(創作の部分もあるとは思うが)。
作品全体に共通するのは、作者の暖かな眼差しと、どこか懐かしい風景描写である。この暖かさや郷愁は登場人物の会話に依るところが大きい。地方独特の訛りがあって、テンポの良い会話の運びがある。
「乳の匂い」は著者晩年の作品であり、叔父の許で暮らしていた13歳頃の京都が舞台である。
主人公の私は叔父の言いつけで、心ならずも丁稚として働かされていた。叔父は任侠の人で、学問はないが実業家、往時には京都に幾つかの店を持ち、妾も4、5人あった。しかし、私(主人公)が働いていた頃には既にその勢いはなく、店も1軒を残すのみとなっていた。
叔父はまだ50歳に満たない年齢ながら、歯は全て抜け落ち、眼窩は窪み、まるで老人のようであった。その頃の叔父は新しい妾のお雪さんと暮らしていた。
お雪さんの姉の家には、お信さんという若い女性が彼女の赤子とともに暮らしていた。お信さんは乞食の両親の元に生まれ、その後叔父に引き取られ、叔父の養女として育てられた。
このお信さんに対する主人公(私)の一方的な、恋慕にも似た感情が本作品の主題である。主人公は乳児の時に実母を亡くしていることから母性の情愛に飢え渇いていた。故郷を出奔して以来の孤独や寂しさもあって、お信さんの母性的なやさしさが主人公の心に染み入る。
作品の表題である「乳の匂い」は、お信さんと主人公との間で起きたあるエピソードに由来する。お信さんの母性的な優しさに惹かれていく主人公の心情は、やがて恋慕の情へと変わっていく。このあたりの主人公の心情が細やかに丁寧に描かれている。
それから数年を経て、主人公はお信さんがその後悲劇的な運命を辿ったことを知るのであった。

「世の中へ」は、「乳の匂い」と同じく京都の叔父の許で暮らしていた頃の話である。
この小説では、主人公(私)は看護婦の藤本さんに恋慕の情を抱く。藤本さんは18歳か19歳くらいの若い女性。主人公が母性的な情愛に惹かれていく点は「乳の匂い」と同じモチーフである。
主人公は京都に出奔する前に足の関節炎を病んでいたのだが、これが再発し、京都の府立病院に入院、手術する事態となる。この時に看護婦の藤本さんと出会い、彼女からの看病を受けるうちに次第に心惹かれていく。
2度の手術を経て退院することができたが、その後も叔母の死亡など主人公の前途は多難であった。特に、主人公の姉が私生児を生んだことに主人公は大きなショックを受けるのであった。

「厄年」は、文学を志して東京に上京した平三(主人公)が、夏季休暇中に故郷である能登の漁村に帰省したときの出来事が描かれている。
その頃平三の義母の連れ子(義理の妹)は肺病を患っており、もう長くはないという状況にあった。平三は妹を見舞うのは人として当然のことだと考える一方で、肺病をうつされることを非常に危惧している。特に学校の卒業を翌年に控え、自分には前途があること、今年が自身の厄年にあたることなどが平三に帰省をためらわせていた。
不人情と思われたくない気持ちと、肺病が伝染することを恐れる気持ちが交錯するまま平三は帰省を決意する。この相反する気持ちは、帰省後に床に伏せる妹を前にしてからも続き、以後も平三を悩ませることになる。
しかし、この小説は陰鬱な話ばかりではない。平三は帰省して直ぐに父・平七の漁を手伝うことになるのだが、この場面では故郷の訛りのある会話を交え、父と子のやり取りがが活き活きと描かれている。
「厄年」もそうだが、著者の作品には登場人物が「南無阿弥陀仏(なんまんだ)」と念仏を唱える場面がいくつか描かれている。この時代、地方の庶民にも真宗が根付いていたことが窺われる。

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