賀川豊彦「死線を超えて」
私は賀川豊彦の名前もその著作も知らなかったが、ある書籍で賀川豊彦がノーベル平和賞とノーベル文学賞の候補に推薦されたことがあることを知った。それほどの人物が、今日あまり知られていないのは何故なのだろうか? Wikipediaによると、賀川豊彦は1947年(昭和22年)と翌1948年(昭和23年)にノーベル文学賞の候補となり、1954年(昭和29年)から1956年(同31年)の3年連続でノーベル平和賞候補者に推薦されたそうだ。 賀川豊彦の思想と活動を追った書籍に「賀川豊彦」(隅谷三喜男:著、岩波同時代ライブラリー)がある。但し、この本は戦前・戦中までの賀川の活動に焦点を当てており、戦後の活動には触れていない。(これは著者が、賀川の思想の中核が戦前・戦中までに形成されたと考えたからである) また、この本のあとがき・追記には、 「1980年代、賀川豊彦の貧民社会認識をめぐって批判が生じた。部落問題に関する叙述が部落差別的視点に立っているという批判である。賀川批判はキリスト教界における大問題になった」 と書かれているが、(戦後の出来事であることから)本文のなかではこの問題に触れていない。 賀川に対するそのほかの批判として、賀川が太平戦争中、戦争に協力的であったという批判もあるようだ。しかし、これらの批判は現在の価値観からみての批判であり、これをもって賀川豊彦の思想と活動の全てが否定されるものではないだろう。 実際のところ、太平洋戦争中はキリスト教団も仏教教団も戦争に積極的に加担しており、非戦論者は非常に少なかった。 Wikipedia の紹介文を借りれば、賀川豊彦は「大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動、協同組合保険(共済)運動において、重要な役割を担った人物」である。書籍「賀川豊彦」(隅谷三喜男:著、岩波同時代ライブラリー)から、以下、賀川の思想と活動の概略を追ってみる。 賀川にとって「宇宙悪」の問題こそが彼の生涯の課題であり、彼の世界観と神学と実践を支えた基盤であった。宇宙悪の概念を私はよく理解できていないが、「神が想像した宇宙になぜ悪は存在するのか」という問題提議であり、悪を克服し回復する力としてイエスの十字架の贖罪が強調されている。 そして、宇宙悪の問題のなかで賀川が一番力を注いだのが「社会悪」の問題である。賀川は社会悪の巣窟である貧民窟に身を投じ、その問題の解決に取り組んでいく。 当時の貧民窟の生活の劣悪さは、私たちの想像を超えている。重病人が多く、賭博や淫売を生業とする人が多くいたようだ。(今日では差別用語といえる語彙が度々登場するが、当時の時代背景を考えてご容赦頂きたい) なにより驚くのは、「貰い子殺し」の頻発である。日露戦争後の不景気のなか、養育費をつけて嬰児の引き取りを貧民窟の住人に委託する人が多くいた。貧民窟には仲介人がいて、貰い子を受け取った人物が養育費からいくらかをピンハネして次の人物に転売する。転売が次から次へと続くうちに嬰児は栄養不良で死亡していった。このような状況を見かねた賀川は、そうした嬰児の一人を引き取った。 貧民窟で生活するなかで、不熟練労働者が貧民に落ちていく実情を見た賀川は、労働者自身の主体的な解放運動、すなわち労働組合運動の意義を重視するようになる。下層労働者が貧民に落ちていく条件を、賀川は、筋肉労働と飲酒、病気、労働災害、不安定な生活、社会制度の欠陥にみている。こうして、貧民問題を解決するための労働運動への取り組みが始まる。当時の労働運動は社会主義と結びついていたが、賀川はこれに反対する立場であった。「労働組合と社会主義が混同され、社会主義と無政府主義が同一視され、すべて労働者に近づくものは危険思想家だと注意されたことは、日本社会史を綴るものの見過ごすことのできない悲惨な事件である」 大正7年(1918年)、30歳の賀川は関西において押しも押されもしない労働運動の指導者になっていた。一方、関東では大杉栄が労働運動の中心的な人物であった。やがて、賀川の議会主義と大杉のサンジカリズムの対立が激しさを増し、関西の組合員のなかにも急伸過激な意見が増えていった。 農民運動に取り組む一方で、賀川はキリスト教の伝道にも力を注いでいる。大正10年(1921年)、賀川は同志とともに宗教結社「イエスの友会」を立ち上げている。「イエスの友会」は、人格的社会組織の達成、無戦世界の実現、基督教兄弟愛の実行、人格的労働組合の完成、産業組合の普及、などを主張した。 賀川豊彦の著作「死線を超えて」は、大正9年(1920年)改造社から出版され、空前のベストセラーとなった。上、中、下巻、あわせて400万部に達したのではないかと推定される。 それにしても貧民窟で生活する人々の日常がすさまじい。今日、相対的貧困や所得格差が問題になっているが、当時の貧民窟の生活は絶対的な貧困の中にある。 |
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