波木井皓三「大正・吉原私記」

2023年9月1日


波木井皓三著「大正・吉原私記」は、”大文字楼”楼主の息子として生まれ、吉原で育った著者の、周辺の出来事や著名人にまつわる逸話、大正時代の風俗を描いた作品である。波木井皓三著「大正・吉原私記」
大文字楼は、吉原に3軒あった大籬(おおまがき)(格式の高い娼家)の一つである。
大文字楼は、昭和19年の東京大空襲の数週間前に、工場の高級宿舎として解体移築され今は跡形もない。その跡地は今は吉原公園になっている。

作者は大文字楼の長男に生まれたが、生家の稼業をずっと後ろめたく感じていた。あるとき、とうとう父親に「この商売をやめて下さい」と迫る。これを聞いた母親の反応は「それア、お前さんの言うことは正しいかもしれないよ。しかし、悪い悪いというが、この商売だってお上で認めた商売ですよ。大昔から続けているんだからね。・・・・・この商売をやめたらみんなが困るんだよ。」というものであった。
さて、この騒動を聞きつけた娼妓たちの反応は、
「あたしたちがこの商売をしているから、あの息子だって、うちのおかみさんに今日まで育ててきてもらったんじゃないか。ほんとうに親泣かせだよ。この商売やめろなんて、あたし達を一体どうするんだいって、聞いてやりたいよ」
「およしよ、およしよ。相手は世間知らずのノラ息子なんだから・・・」
と手厳しい。
作者は、「彼女たちに同情しているのに、どうしてこんなに反対に受け取られるのか、・・」机上にうつ伏せになってしまった。この様子を覗き見していた娼妓が部屋に戻ると「隣のノラ息子、泣いているよ」と娼妓たちの哄笑が起こる。
苦界に生きる女性たちではあるが、なかなかに逞しい一面が描かれている点が救いである。

浄閑寺 浄閑寺。
安政2年の大地震の際、多くの新吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたことから投込寺と呼ばれる。
新吉原無縁墓には、新吉原が開設されて以来、1万5千体の霊が無縁仏として合祀されている。
永井荷風の祥月命日である4月30日に「荷風忌」が催される。
目黄不動(永久寺)目黄不動(永久寺)。 江戸五色不動の一つ。
作品の中には登場しないのだが、浄閑寺から近いので立ち寄ってみた。 明治通り沿い、ビルに囲まれたこじんまりとした空間にあり、訪れる人は少ないようだ。
五色不動の五色とは、五大(地、水、火、風、空)を表しているとのこと。
土手の桜肉鍋のお店。
見たところ、二件だけが残っているようだ。
「中江」さんの店舗は国の有形文化財、関東大震災後に建てられたもので、築80年以上の歴史がある。
大文字楼があった場所は、今は吉原公園(地元では大文字公園とも呼んでいたようである)になっている。
「明治末期の私の生家(大文字楼)は、三階建てで屋上からは遥かに日本堤を越して、水田を隔て小塚ッ原のお地蔵様が見え、その前を常磐線の汽車が白い煙を吐いて走っていく」と当時の風景を記している。
また、作者が後年吉原公園を訪れ、昔を思い起こした時の様子が、
「家の裏門から外へ出るには、この鉄漿溝(おはぐろどぶ)に架かっている「刎橋(はねばし)」をスルスルと下さなければならない。家の裏門の廊下から石段を六、七段も下りなければ、裏門の刎橋に到達しない・・・この公園の奥の幼時私の住んでいた離れの跡地に立つと、昔と同様にこの公園の土地は高く、廓外の裏通りは低く、廓の周囲を取り囲んでいた鉄漿溝の跡は今はない」と綴られている。
左の写真の、石段を降りきった道路のあたりが鉄漿溝のあったあたりだと思われる。

さらに、 「ただ昔ここに鉄漿溝のあった痕跡を示すのは、刎橋の土台石があるということだ」と書かれているのだが、土台石がどの辺りにあるのかは分からなかった。
吉原弁財天(弁天池跡)の観音像新吉原花園池(弁天池)跡に建つ観音像。
観音像は、関東大震災の時、弁天池で溺死した人々を供養するために、大正15年に造立された。
作品の中では、関東大震災と、その後発生した大火による惨劇の様子が「花園池の惨事」として描かれている。燃え盛る火の手に逃げ場を失った人々が花園公園の池に殺到して溺れ、一夜にして地獄池にになったと記されている。
また、「この花園池の多数の娼妓の焼死または溺死事件が起こった原因が、当時一般には廓内の「大門」が閉鎖されていたから、という説が流布されていた」とある。大門という「門」があり、それは開けたり閉めたりできるものと思っていた人が多く居たようであるが、実際のところは違ったようである。開けたり閉めたりできる扉などはなく、大門以外にも非常口が幾つかあったようである。
廓の中で生活していたのは、娼妓や廓の関係者ばかりでなく、郵便局や菓子屋、煙草屋、食いもの屋などがあった訳だから、当たり前といえば当たり前である。
このような噂が広まったのは、当時、婦人運動や廃娼運動が盛り上がっていたことなども関係していたようである。
いろは会商店街吉原とは道路を隔てた反対側に、山谷の商店街「いろは会商店街」がある。曾ては「ドヤ街」と呼ばれていた地域も、労働者の高齢化が進み、簡易宿もバックパッカー向けの宿泊施設に建て替わるなど、変貌著しい。
商店街の店舗が減少していることから、
「あしたのジョー」を活かして街の活性化に取り組んでいる。
商店街の路地とスカイツリー日本堤や千束では、路地の向こう、至る所で東京スカイツリーが見える。
写真は載せていないが、大門の見返り柳と東京スカイツリーが重なって見え、平成の見返り柳とでも言うべき、時代の移り変わりを感じさせる風景が見られる。

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Posted by kondo