諸田玲子「木もれ陽の街で」

2023年8月22日

諸田玲子「木もれ陽の街で」は、昭和26年~27年の荻窪を舞台にした小説である。
主人公は小瀬君子、丸の内にある商社の医務室に勤務している。木もれ陽の街で
小説に描かれている東京の風景は、まだ残る戦争の傷跡も多少は描かれているが、野原や田畑に囲まれた郊外ののんびりとした住宅地である。タイトルの木もれ陽は、小瀬家の近くにある与謝野家(もと与謝野鉄幹・晶子が住んでいた屋敷)の景観からと思われる。「生い茂る枝葉の合間から幾筋もの木もれ陽が射している。きらめき合い、重層になって、黄金の綾を織りなしていた。」

荻窪周辺マップ現在の荻窪付近の風景は、昭和26年当時とは随分と異なっているはずであろうから、主人公の家やご近所の場所を特定するのは難しい。

重要なヒントになるのが、与謝野鉄幹・晶子旧居跡である(地図上①)。
「与謝野家から、我が家は2つ目の角を左へ曲がって2軒目になる」
「我が家は高台にあるので、駅までの道のりの半分はだらだら坂を下る。坂の途中の路地を入ったところが坂下の家、父の実家の、例の3婆の住まいである。」
「坂を下りきる手前に小さな木の橋が架かっている。下を流れているのは善福寺川である。」(地図上②)
小さな木の橋は、忍川橋あたりか?
「坂を下りきった角には変電所がある。子供の頃、このあたりは見渡す限りの野っ原で、変電所の建物だけが場違いなほど堂々とそびえ立っていた。」
変電所がどこにあったのは良く分からない。今の周辺の風景は、小説に描かれているそれとは様変わりしている。

「与謝野家の次の角を左へ曲がると下り坂で、下りきったところが大通りである。日の丸市場は大通りを渡ったところにあった。」「小瀬家で聞こえる除夜の鐘は日の丸市場の向こう、中道寺の鐘である」
このあたりの位置関係は判然としない。日の丸市場というのは荻窪駅の北側に位置していたようだし、中道寺というのは地図で見るとずっと南側にある。(地図上③)

区立与謝野公園与謝野鉄幹・晶子旧居跡は公園になっている。
杉並区立与謝野公園である。
昭和57年「南荻窪中央公園」として開園し、平成24年再整備した際「与謝野公園」に改称された。
公園の周辺は小説と同様、今でも閑静な住宅地である。
公園内にある説明板
与謝野鉄幹・晶子夫妻が晩年を過ごした居宅跡である。
昭和2年麹町区富士見町からこの地井荻に越してきた。
遙青書屋と采花荘と名付けられた2棟があったという。
区立与謝野公園の藤棚

公園内には藤棚があり、ちょうど見頃を迎えていた。

善福寺川善福寺川の描写は、田舎ののどかな小川の趣がある。
「水は空が映るほど澄みきっていて、水底の小石の数まで数えられそうだ。川縁にはマルハの秋刀魚の蒲焼きだのサバの味噌煮だの、缶詰の空き缶が沈んでいて、朝陽を浴びて宝石のようにきらめいていた」
「子供の頃、近所の腕白どもに誘われて、鮒やメダカを獲まえて遊んだ。初夏には蛍、秋はトンボ、それにススキ、春先には野芹を摘んだ。」

現在の善福寺川はコンクリートの護岸が風趣を削ぐが、水は比較的綺麗だ。

中道寺の鐘楼門中道寺の鐘楼門は、鐘楼と仁王門を併せた珍しい建築で、杉並区の有形文化財に指定されている。
鐘楼の周りは、おそらく鳥の侵入を予防するためであろう、ネットで囲まれている。

中道寺の鐘は太平洋戦争の当時、金属類回収令によって供出された。
鐘楼門には、青銅製の釣鐘に替わって、コンクリート製の釣鐘がかけられた。鳴らないコンクリート塊をわざわざつるしたのは「(代わりの)重りがないと、鐘楼門の屋根が(強風で)飛んでしまう」恐れがあったからだという。
境内には今でもそのコンクリート製の釣鐘が残っている。(毎日新聞2015/6/24より)

善福寺川から荻窪駅までは、再びだらだらと上り坂になっている。荻窪駅に通じる道は幾つかあるので、小説にある一本道がどの通りを指しているのかははっきりしない。

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Posted by kondo