辺見じゅん「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」
8月の終戦記念日の前後になると毎年、太平洋戦争に関連した記事や特集がメディアで報道される。 2014年8月14日の読売新聞に「シベリア遺骨収集、世代を超えて 今なお眠る3万4千柱」の記事があった。シベリア抑留で死亡した日本人の遺骨を掘り起し、日本に帰還させる遺骨収集帰還団の活動を報じたものである。 また、シベリアの収容所で抑留生活を送った故・早田貫一さんの絵画や資料約30点が、東京都新宿区の平和祈念展示資料館で展示されている、などの記事もあった。 シベリア抑留とは、終戦後武装解除され投降した日本軍を、ソ連が捕虜として強制収容所(ラーゲリ)に移送し、長期にわたり強制労働に就かせたものである。 旧満州、樺太などからソ連軍によってシベリアに連行された日本人は、民間人を含めて60万人近いと言われているが、正確な数は把握されていない。 捕虜収容所は、広大なソ連領内に約1,200ヶ所もあった。そして、収容された日本人のうちの7万人以上が、飢えと重労働と厳寒・劣悪な環境のなかで命を落としていった。 最終的に日本人抑留者全員の釈放が決定したのは、なんと終戦から10年以上が経過した昭和31年のことである。 辺見じゅん「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」は、シベリアに抑留された日本人捕虜たちの収容所での生活を克明に綴ったノンフィクション小説である。 捕虜に課せられたのは、長時間にわたる重労働であった。 作業は、土木建築作業が中心で、木材の伐採や製材、排水管や水道管の穴掘りなどであった。また、大工や、左官、塗装、板金、電気などの専門的な作業もあった。 冬は気温が零下40度にもなり、土が凍結して穴掘り作業は困難を極めた。 収容所の食事も悲惨なものであった。 1日に黒パンが350グラム、朝夕にカーシャと呼ばれる粥が飯盒に半分づつか、野菜の切れ端が浮かんだスープ、そして砂糖が小さじ1杯支給されるだけ。 毎日が空腹との戦いで、営内や作業現場で捕えたネズミや蛇、カエル、かたつむりまで食べていたという。 このノンフィクション小説の中心に描かれているのは山本幡男(敬称略)という男である。 山本は、禿げかかった頭と伸び放題の口髭を蓄え、絆創膏と電線で補強した分厚い丸い眼鏡をかけた、飄々々とした風貌を有する人物。 収容所内で勉強会や句会を主宰するなど、博識で人望も厚い。 著者はあとがきで、「偉大なる凡人の生涯、それもシベリアの地で逝った1人の男の肖像を描きたいと思ったのは、その不屈の精神と生命力に感動したからに他ならない」と書いている。 小説は中盤以降、山本を慕う友人たちにより実行に移された、ある計画により急展開、そして物語の山場へと向かう。 この小説の表題にもなっている、この計画の遂行と結末こそが、著者をこの物語の執筆へと駆り立てたものに違いない。 |