有情と非情

仏教思想では有情と非情を区別する。有情とは人間や動物のことであり、非情とは植物や無機物のことである。
アリストテレスは、霊魂(プシュケー)のあり方によって、植物、動物、人間を分けたそうである。西洋のものの見方は、このアリストテレスの区分の延長線上にあり、今日では、人間、動物、植物、無生物と分けるのが一般的になっている。
しかしながら、この区分はかなり大雑把なものだ。例えば、動物ひとつとってみても、犬や猫などのペットと、ゴキブリやハエとでは、(彼らに対する人間の扱いは)明らかに異なる。
人間は、動物のなかをある種の物差しで区別している。その物差しは、ある時は知能レベルであったり、ある時は見た目(姿かたち)であったりする。
当然のことながら、この種の物差しは、文化や地域によって異なるし、同じ文化・地域であっても人によって異なるだろう。(その1つの例がイルカ漁に対する批判である。これは動物を知能レベルで区別した時、どれほど人間に近いか(同類と感じるか)という問題を含んでいる)

末木文美士著「草木成仏の思想 -安然と日本人の自然観-」は、草木成仏論に対する安然の思想を研究したものである。(安然は平安時代前期の天台宗の僧である)草木成仏の思想
草木成仏論は、考え方の違いから大きく二つに分かれるようだ。
ひとつは、有情と非情は平等ではなく、有情が成仏することでその環境である非情 -すなわち草木- も成仏するという考え方である。
いまひとつは、草木が「自ら」発心・修行して成仏するという思想である。
安然の思想は後者である。
本書の内容は非常に学術的であるが、私は門外漢なので詳細には踏み込まない(踏み込めない)。そもそも仏教に対するスタンスは人により様々である。思想や論理を学術的に研究する人もいれば、思想の解明よりも実践(修行)を重んじる人もいるだろう。
また、私をはじめ多くの人は基本的な考え方やものの見方、あるいは他の宗教との違いなどを知りたいと思っているだろう。

安然の思想の眼目は「真如」である。真如の普遍性により、有情と非情の区別がなくなり -すなわち万物平等の地平が開け- 非情である草木も自ら発心・修行・成仏するとみるのである。
本書では、安然の草木「自」成仏思想の展開が、その後の真言密教や禅思想にも見られるという。また、中国の禅では、無情成仏ということよりも、無情が教えを説くという「無情説法」がしばしば取り上げられている。
本書には記載がないが、正法眼蔵の渓声山色の巻には、宋代の詩人蘇東坡(1036~1101)の詩を引用している個所がある。
「渓声すなわち是れ広長舌、山色清浄身に非ざることなし。夜来八万四千偈、他日如何が人に挙似せん。
(渓声はそのまま仏の広長舌である。山のすがたは仏の清浄身でないことはない。前夜来耳に響く八万四千偈は、他日、どうして他人にしめそうか)」(水野弥穂子訳註本より)
さらに山水経の巻には「而今の山水は古仏の道現成なり(いまの山水は古仏の道のじつげんである)」などの記述がみられる。

本書では真如の問題を考える際の参考として、ジャック・デリダとジャン=リュック・マリオンの論争を取り上げているが、このあたりは唐突で話の筋道も良く分からなかった(論理展開が短兵急すぎると思われる)。
仏教思想と西洋思想の比較という観点では、森本和夫氏がジャック・デリダと道元を取り上げていたことを思い起こす。

本書は冒頭で「山川草木悉皆成仏」という言葉に言及している。
この言葉は1986年、中曽根首相(当時)が施政方針演説で使ったことで世間に広まったようだが、実は仏典には無いらしい。
いかにもありそうな仏教的なこの言葉が、実は出典の無い造語であったというのは面白い。(IT業界では次から次へと新しい造語が出てくるから、山川草木悉皆成仏くらいはあってもおかしくはないだろう・・・)

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