憲法には、一切の表現の「自由」はこれを保障する、とある。さらに表現の自由をめぐっては、例えばWebを検索すれば、放送法との関係やヘイトスピーチとの関連など、多くの視点からの意見や論考が見つかる。
しかし、そもそも、表現の自由とか言論の自由、信仰の自由などという場合の、「自由」の定義とは何であろうか?
「自由」に限らず、一般に言葉(概念)というものは、人によって微妙に解釈が異なっている場合がある。(さらにいえば、時代によって解釈が異なる場合もある)
言葉の解釈がずれていれば、おのずと議論も噛み合わなくなってくるわけである。
柳田聖山氏は、「禅と日本文化(講談社学術文庫)」のなかで自由を3つに分類している。
第一は、好き放題、勝手気ままにふるまうこと。(いわゆる我がまま、独りよがりはどんな場合にも許されないことである)
第二は、何らかの拘束より解放されることを求める自由、つまり「何か」からの「自由」である。
私たちが普通、自由になりたいとか、自由主義と称しているものは、第二の自由に含まれるという。
第三は、自主的、創造的な自由。
それは何かからの自由ではなく、それ自らあることの自由として、より積極的な、より肯定的なものとなる、
としている。
また、第一と第二の自由は世俗的な拘束を前提とするから、常に矛盾を含み相対的であるのに対して、第三の自由は絶対的であるという。
表現の自由について書かれた意見や論考はだいたい「第二の定義の自由」を前提にしているようだが、なかには「第一の定義」、好き放題、勝手気ままを含んでいるものもあるようだ。
鈴木大拙氏も、その著書「東洋的な見方(岩波文庫)」のなかで同様のことを述べている。こちらは「自由」の歴史的経緯を踏まえてより詳細に述べられているので、その一部を引用してみたい。
「元来自由という文字は東洋思想の特産物で西洋的考え方にはないのである。あっても、それはむしろ偶然性をもっているといってよい。
それを西洋思想の潮のごとく輸入せられたとき、フリーダム(freedom)やリバティ(liberty)に対する訳語が見つからないので、そのころの学者たちは、いろいろと古典を探した末、仏教の語である自由をもってきて、それにあてはめた。
それが源となって、今では自由をフリーダムやリバティに該当するものと決めてしまった。西洋のリバティやフリーダムには、自由の義はなくて、消極性をもった束縛または牽制から解放せられるの義だけである。
それは否定性を持っていて、東洋の自由の義と大いに相違する。」
もともと東洋の自由とは、「ものがその本来の性分から湧き出るのを自由という」としている。
柳田聖山氏の定義は、鈴木大拙氏の見解を踏まえたものと思われる。(あるいは、どちらも禅思想を念頭においているから、必然的に同じになったのかもしれない)
柳田聖山氏の定義を用いるならば、もともと東洋思想には第三の定義の自由しかなかったが、明治時代に西洋思想を輸入したときに、第二の定義の自由が(翻訳を媒介として)入ってきたということになる。
そして今や、多くの人は第二の定義の自由(及び第一の定義の自由)を「自由」と称していて、第三の定義の自由(もともとの東洋思想としての自由)を知る人はほとんどいなくなってしまった、といえる。
また、第一の定義の自由に対しては鈴木大拙氏も警告を発している。「よく自由と放逸とを混同する。放逸とは自制ができぬので、自由自主とはその正反対になる。」
第二の定義の自由が声高に叫ばれるのは、その定義から明らかなように、束縛や牽制が強く意識せられるときである。具体的には政府の圧力や、法的環境(特定秘密保護法)などである。
インターネットやSNSが大きく発展したことで、一般の人々でも自由に意見を発言できる場が広がった。ネット上の声が発端で、新国立競技場のデザインやオリンピックの公式エンブレムが覆されたり、待機児童対策の遅れが大きな社会問題としてあぶり出されたことは記憶に新しい。
しかし、ネット上の意見が本当に世の中の意見の大勢を占めているのかは、疑わしい面がある。むしろネット上に自分の意見を投稿する人の方が社会全体では少数派の可能性すらある。
また、ネット上には差別的な発言や、個人攻撃(名誉棄損)に該当するような書き込みもみられるが、これらは第一の定義の自由であり、自由と放逸の混同であろう。
|
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません