柳田聖山「禅と日本文化」
柳田聖山「禅と日本文化」は、日本の禅思想について、その歴史的背景と日本文化、芸能との関わりを解説した書籍である。 禅はインドから中国を経て日本に伝わったものであるが、中国においては明の時代に衰退に向かい、以後再び盛り返すことはなかった。一方、日本において禅は独自の発展を遂げる。 禅の出発点は「人は本来、誰もみな仏である」という点にある。 とりわけ日本仏教は、衆生に限らず、草木、山川といった無生物にも仏になる可能性がある、否、仏そのものだという徹底した考えに至る。 このような、天地同根、万物一体の思想は、老子や荘子を祖とする道教の影響があったと考えられる。中国の禅はインド仏教と道教の接触より生まれ、日本仏教はこの思想をさらに徹底させていった。 著者によると、今日、日本で禅と呼ばれる宗派は大まかに三派よりなる。 1.道元禅師を祖とする曹洞宗 2.江戸の初めに日本に帰化した隠元禅師を祖とする黄檗宗 3.臨済宗 三つ目の臨済宗は、鎌倉時代から室町時代にかけて日本に定着したが、江戸中期に白隠禅師が臨済宗の各流派を集大成した点が特に重要である。 柳田聖山氏は、禅の魅力の源泉は、道元や隠元よりも、白隠にあるという。そして、白隠の臨済禅は最も日本的特色を有する。 さらに、中世より近世初期の間に、禅の周辺に発展する日本独自の生活芸能(建築、庭園、工芸、能楽、茶道、俳句)はすべて臨済禅の成果だという。 白隠禅師の前と後とでは、用いる公案にも違いがあるようだ。 白隠以後の臨済禅は、それまでの「碧巌録」でなく、「無門関」を重視するようになったという。 「無門関」は南宋末期のもので、成立と同時期に日本にも来るが、中国ではほとんど読まれなくなった。そして、「無門関」で重視されている公案が「無字の公案」である。 西田幾多郎もこの無字の公案に参じ、34歳の時にこの公案を透って師の許しを得たという。 柳田聖山氏の師匠である久松真一氏は、その著作「禅と美術」において、日本文化と禅とのかかわりを、理論的に体系づけようとした。 久松氏は、日本の美意識を、不均斉、つまり釣合のとれないものをよしとし、偶数よりも奇数を尊ぶところにあるとして、これを禅の本質としているそうだ。 日本文化の不完全性は、いつか完全に至る手前にあるのではなくて、むしろ完全なるものを抑えた、「つやけし」の美しさにあるのだそうだ。竜安寺の石庭はその究極であるという。 「つやけし」の美意識は、例えば、吉田兼好の「徒然草」にもみられるという。 日本人の死生観に関して、特に武士道と禅思想の関連において、世間一般には大きな誤解があるという。 武士道では、桜の花が散るように潔く死ぬのが日本人の誇りであると考えられているが、禅にはそのような考えはない。禅も仏教の一つであるから、自分も含めて命を殺める行為は不殺生戒に背くことになる。いたずらに生や死を美化したり、あるいは忌避する思想も存在しない。 ではなぜこのような誤解が生まれたかということだが、これには「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な一句が関係している。 「葉隠」という本は、江戸時代中期の、極めて平和なある地方藩の下級武士たちの日常生活の心構えを語る、一種の人生読本であった。 その頃の武士は国家管理体制のもとで完全にサラリーマン化していた。殉死や仇討ち、果し合いなど、かつての戦国時代の風習はすべてご法度になってしまった。そんな太平ムードの中で個々の武士の生き方としての死の覚悟をよびさまそうというのが、あの名句のねらいであったという。 今日風に言えば、安穏な組織風土の中で「ゆでガエル」になった社員に対して、喝をいれる目的であった。 なお、柳田聖山氏は、岡倉天心の「茶の本」に関しても、「利休が最後に切腹する場面にだけ妙に力点を置き過ぎたきらいがある」と批判的である。 さて、講談社学術文庫版には、「禅と日本文化」のほかに、「純禅の道を求めて―白隠、隠元、道元」と、「無字のあとさき―そのテキストをさかのぼる」の2編が収録されている。「禅と日本文化」が比較的初心者にも読みやすく、やさしく書かれているのに対して、あとの2編はかなり専門的な内容である。 |
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