大杉栄と甘粕大尉

大正12年(1923年)9月、大杉栄殺害事件(あるいは甘粕事件)は関東大震災による混乱の最中に起きた。
関東大震災では、「主義者の暴動」や「朝鮮人襲来」といった根拠のない流言飛語が飛び交い、人々はパニックに陥っていた。実際、震災の翌日には戒厳令が敷かれ、「主義者」など危険人物と目される人が次々と検束された。
無政府主義の巨頭とみられていた大杉栄は、伊藤野枝、甥っ子の橘宗一とともに憲兵隊本部に連行され、そして殺害された。この事件の異様さは、単に主義者というだけで殺害されたということのみならず、わずか6歳の子供まで殺害して死体を井戸に放り投げた点にある。
殺害は陸軍憲兵大尉、甘粕正彦の個人的判断で実行されたとされた。その動機は、社会主義者や無政府主義者は国家に害を及ぼすため、自らの手で排除した、というものである。
しかし、その後の軍事裁判で子どもは甘粕の指示で別のものが手を下したことが判明する。この事件に関しては、甘粕個人の判断ではなく、軍の上層部からの指示があったという説や、麻布三連隊説、内務省警保局説などがあり、その真相はいまだに藪の中である。
角田房子「甘粕大尉」(ちくま文庫)は、大杉栄殺害事件から戦後自決するまでの、甘粕正彦の足跡を追ったノンフィクション小説である。

一方、甘粕に殺害された大杉栄に関しては、「自叙伝」(青空文庫)がある。
こちらは大杉栄の少年時代から、大正5年(1916年)の日蔭茶屋事件までが書かれている。日蔭茶屋事件とは、神奈川県葉山のかっぽう旅館「日蔭茶屋」で、大杉栄が当時(三角関係ならぬ)四角関係にあった神近市子にナイフで刺された事件である。
日蔭茶屋事件で一命をとりとめた大杉は、その後国際無政府主義運動に力を注ぎ、大正12年パリのメーデー集会で演説して投獄された。そして、フランスから追放され帰国した2か月後に殺害された。

大杉栄の父親は軍人であり、そして精神家であった。
精神家とは当時の呼称であり、忠君・愛国の軍人精神が徹底している者を指す(多少の皮肉を込めた呼び方のようだ)。そして、甘粕大尉も間違いなく精神家であった。
大杉栄も幼年学校を退校させられるまでは軍人を志していた。しかし、東京外国語学校の学生であった頃に平民社を訪れるようになってからは社会主義や無政府主義へと彼の思想が転換していく。
大杉は当時の様子を次のように書き留めている。「僕はこの万朝報によって初めて軍隊以外の活きたいろんな社会の生活を見せつけられた。ことにその不正不義の方面を目の前に見せつけられた」
「(幸徳秋水の)軍国主義や軍隊に対する容赦のない攻撃は、僕にとってはまったくの驚異だった。・・・秋水の非軍国主義に魅せられてしまった」
軍籍を失ってからも軍人精神を貫いた甘粕大尉とは正反対の方向に進んでいく。大杉も甘粕も、ともに名古屋幼年学校で学んでいた、という点は運命の皮肉と言えようか。

大杉栄は子供のころから暴れん坊であった。
「僕は毎日学校で先生に叱られたり罰せられたりしていた。家でも始終母に折檻されていた。」「僕はこんな喧嘩に夢中になっている間にますます殺伐な、そして残忍な気性を養っていったらしい」
幼年学校を退校になったのもナイフを使っての喧嘩が原因である。一方で大杉は内気な性格も併せ持っていた。これはおもに吃音が原因だったようで、大杉の父親や叔父も吃音だったことから遺伝的な側面があったのかもしれない。(吃音に関しては、最近の研究でも遺伝的側面があるのか否かは不明だそうだ)

少年時代の大杉は成績優秀で、教育に関しても恵まれた環境にあったようだ。
「学校の出来はいつも善かった。尋常小学校の1年から高等小学校の2年まで、3番から下に落ちたことはなかった」「高等小学校に入ってからは、学校のほかにも英語や数学や漢文を教わりに私塾に通った」
と記している。

幼年学校を退校になった後、大杉は上京して、東京学院を経て順天中学、東京外国語学校へと進学する。ただし、順天中学は替え玉受験での合格である。
大杉は、順天中学の頃に海老名弾正の本郷教会で洗礼を受けている。しかし、海老名弾正の国家主義的なキリスト教に反感を抱くようになり、さらに宗教の本質である無抵抗主義にも疑いを抱いて以降はキリスト教を棄てたようである。

大杉は父の転任に伴い、5歳から15歳までを新潟県の新発田で生活している。
自叙伝には、父親が日清戦争で留守の間に「与茂七火事」という大きな火事があったことが記されている。与茂七とは、中之島村の名主大竹与茂七のことである。与茂七はあらぬ濡れ衣を着せられ、正徳3年(1713年)に斬首の刑に処せられてしまう。
この事件以後、新発田では大火事が発生すると与茂七の祟りだといって、「与茂七火事」と呼ぶようになったそうだ。

大杉栄の自叙伝には、伊藤野枝、神近市子との恋愛関係(というより愛憎劇)が描かれているが、伊藤野枝に対する大杉の愛情がどれほどであったのかはあまり書かれていない(少々意外である)。
この頃、伊藤野枝は辻潤と別れ、子どもと一緒に大杉のところに転がり込んでいる。一方、大杉は保子(実質的な妻)を四谷の家に一人置いて、神近や伊藤と関係を持っていたが、やがて姉御肌の神近が疎ましくなってくる。大杉と神近の間の緊張感は日に日に高まっていき、ついに日蔭茶屋事件へと行きつく。

自叙伝では、伊藤野枝と神近市子に関する愛憎劇よりも、大杉の初恋の思い出の方が、筆致が輝いていると感じる。大杉が10歳の頃の女友達は「お花さん」と「礼ちゃん」である。
特に礼ちゃんとは、大杉の人生の節目ともいえる時期に何度かの再会を果たしている。印象的なのは、大杉の母親が亡くなったときの再会である。
「母の死体がうちへ着いた時に、僕はその棺のそばに礼ちゃんが立っているのを見た。礼ちゃんはしんみりした調子で「ねえ、栄さん、私お嫁に行ってずいぶんつらいのよ」・・・・」
二人の心は少年・少女の頃に戻り、会話を弾ませながら並んで道を歩いていくのであった。
さらに、大杉が神近や伊藤との恋愛関係に入り始めた時期にも再会している。この時、礼ちゃんの夫は肺病を患っており、余命いくばくもない状態であった。

甘粕大尉は大杉栄殺害事件で子どもまで殺害したことから、冷酷な右翼テロリストとのイメージが生涯ついて回る。実際、甘粕は当時インテリと呼ばれた人たちからは憎悪の眼で見られていたようだ。
作家・長与善郎は甘粕を「一見ムソリニを思わせる満身精力の塊の鋼鉄のような只ならぬ形相の男」と表現している。しかし甘粕の性格はそれほど単純ではない。
子供を殺害し、井戸に放り投げたことからくる悪印象が強いが、冒頭で書いたように手を下したのは甘粕自身ではない。また、甘粕は大変子供好きであったとの証言もある。
彼の母親志げは甘粕を、「8人兄弟の長兄で潔癖な性格。責任感が強い」としながら「正彦は子供好きで、子どもを手にかけるなどあり得ない」と訴えている。
甘粕は満映(満州映画協会)の理事長に就任するのだが、当時の甘粕を知る山口淑子(李香蘭)は、
「吹っ切れた感じの魅力ある人だった」「無口で厳格で周囲から恐れられていたが、本当はよく気の付くやさしい人だった。ユーモアを解し、いたずらっ子の一面もあるが、・・・・」
と語ったとされる。部下の面倒見がよく、部下からの信望も厚かったようだ。

甘粕は大杉栄殺害事件で懲役10年の実刑判決を受けた。
しかし、実際には2年10カ月で出獄し、その後は妻とフランスに逃亡、2年近いフランス生活を送っている。これらの甘粕の行動を経済的にも支えていたのは軍部であったという。このようなことからも、大杉栄殺害事件の背後には軍部の存在があったとみられている。昭和48年、荒畑寒村は講演で次のように語った。
「大杉虐殺事件の真相は不明というほかないが、一大尉の個人的な考えで殺されたのではなく、軍の意図によるものであった」

フランスから帰国した甘粕は昭和4年に妻と共に満州に渡り、満州国設立に暗躍する。実刑を受けて軍籍を失った甘粕であったが、憲兵と組んで裏面工作に当たっている。満州に勤務する憲兵のあいだには、常に甘粕を支持する空気があったという。
満州国設立後、甘粕は満映の理事長に就くが、これは彼の隠れ蓑であり、裏では工作員を派遣して情報を収集し、度々日本に行って東条英機に直言することもあった。
甘粕の人脈は幅広い。関東軍幹部や、皇帝・溥儀をはじめ満州国要人とも密接な関係を持っていた。これだけの情報網を持っていたから、甘粕は昭和19年頃には日本の敗戦を予測していたようだ。

角田房子「甘粕大尉」(ちくま文庫) を読んでいて気になったのは、甘粕とその妻に関する記述が極端に少ないことである。甘粕が妻をどう思っていたのかは全く不明である。甘粕は満州時代、大連に住む妻・ミネには手紙はおろか走り書きの紙切れさえ送っていない。昭和20年8月に自決した際も妻への遺言はなかった。
古海忠之は
「甘粕は妻を連れて人前に出たことがない。いかにあの時代でもいささか異常だった。(家族ぐるみの付き合いで、両方の家族で旅行に行くときでも)私が妻子同伴なのに、甘粕は子供だけしか連れてこなかった」と語っている。

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