2020年 1月 16日

私は賀川豊彦の名前もその著作も知らなかったが、ある書籍で賀川豊彦がノーベル平和賞とノーベル文学賞の候補に推薦されたことがあることを知った。それほどの人物が、今日あまり知られていないのは何故なのだろうか?
Wikipediaによると、賀川豊彦は1947年(昭和22年)と翌1948年(昭和23年)にノーベル文学賞の候補となり、1954年(昭和29年)から1956年(同31年)の3年連続でノーベル平和賞候補者に推薦されたそうだ。
賀川豊彦の思想と活動を追った書籍に「賀川豊彦」(隅谷三喜男:著、岩波同時代ライブラリー)がある。但し、この本は戦前・戦中までの賀川の活動に焦点を当てており、戦後の活動には触れていない。(これは著者が、賀川の思想の中核が戦前・戦中までに形成されたと考えたからである)
また、この本のあとがき・追記には、
「1980年代、賀川豊彦の貧民社会認識をめぐって批判が生じた。部落問題に関する叙述が部落差別的視点に立っているという批判である。賀川批判はキリスト教界における大問題になった」
と書かれているが、(戦後の出来事であることから)本文のなかではこの問題に触れていない。
賀川に対するそのほかの批判として、賀川が太平戦争中、戦争に協力的であったという批判もあるようだ。しかし、これらの批判は現在の価値観からみての批判であり、これをもって賀川豊彦の思想と活動の全てが否定されるものではないだろう。
実際のところ、太平洋戦争中はキリスト教団も仏教教団も戦争に積極的に加担しており、非戦論者は非常に少なかった。
Wikipedia の紹介文を借りれば、賀川豊彦は「大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動、協同組合保険(共済)運動において、重要な役割を担った人物」である。 

書籍「賀川豊彦」(隅谷三喜男:著、岩波同時代ライブラリー)から、以下、賀川の思想と活動の概略を追ってみる。
賀川にとって「宇宙悪」の問題こそが彼の生涯の課題であり、彼の世界観と神学と実践を支えた基盤であった。宇宙悪の概念を私はよく理解できていないが、「神が想像した宇宙になぜ悪は存在するのか」という問題提議であり、悪を克服し回復する力としてイエスの十字架の贖罪が強調されている。
そして、宇宙悪の問題のなかで賀川が一番力を注いだのが「社会悪」の問題である。賀川は社会悪の巣窟である貧民窟に身を投じ、その問題の解決に取り組んでいく。
当時の貧民窟の生活の劣悪さは、私たちの想像を超えている。重病人が多く、賭博や淫売を生業とする人が多くいたようだ。(今日では差別用語といえる語彙が度々登場するが、当時の時代背景を考えてご容赦頂きたい)
なにより驚くのは、「貰い子殺し」の頻発である。日露戦争後の不景気のなか、養育費をつけて嬰児の引き取りを貧民窟の住人に委託する人が多くいた。貧民窟には仲介人がいて、貰い子を受け取った人物が養育費からいくらかをピンハネして次の人物に転売する。転売が次から次へと続くうちに嬰児は栄養不良で死亡していった。このような状況を見かねた賀川は、そうした嬰児の一人を引き取った。

貧民窟で生活するなかで、不熟練労働者が貧民に落ちていく実情を見た賀川は、労働者自身の主体的な解放運動、すなわち労働組合運動の意義を重視するようになる。下層労働者が貧民に落ちていく条件を、賀川は、筋肉労働と飲酒、病気、労働災害、不安定な生活、社会制度の欠陥にみている。こうして、貧民問題を解決するための労働運動への取り組みが始まる。当時の労働運動は社会主義と結びついていたが、賀川はこれに反対する立場であった。「労働組合と社会主義が混同され、社会主義と無政府主義が同一視され、すべて労働者に近づくものは危険思想家だと注意されたことは、日本社会史を綴るものの見過ごすことのできない悲惨な事件である」
当時の労働運動とその背景は「日本の労働運動」(片山潜:著、岩波文庫)に詳しく書かれている。この書籍によれば、当時は、社会主義が労働問題の唯一根本的な解決方法だと考えられ、労働者に対する社会主義教育が展開されていたようだ。また、当時の時代背景を考えるなかでは、明治33年に施行された「治安警察法」が重要な転換点である。
この法律によって、労働者や小作農が雇い主、地主に反対する運動が禁止され、労働者階級の組合組織結成も禁じられた。これらの行為は、社会秩序と平和を乱す犯罪とみなされたのである。当然のことながらこの法律に反対する勢力が生じる。

大正7年(1918年)、30歳の賀川は関西において押しも押されもしない労働運動の指導者になっていた。一方、関東では大杉栄が労働運動の中心的な人物であった。やがて、賀川の議会主義と大杉のサンジカリズムの対立が激しさを増し、関西の組合員のなかにも急伸過激な意見が増えていった。
賀川は、労働運動が暴力や階級争闘で導かれることに反対した。このような事情もあって、賀川の運動の軸足は労働運動から農民運動へと移っていく。
大正10年(1921年)、賀川は日本農民組合を設立するとともに、機関紙「土地と自由」を刊行した。当時の農民は7割が小作人であり、高い小作料に縛られて小作人の生活は困窮していた。全国で小作争議が起きている。

農民運動に取り組む一方で、賀川はキリスト教の伝道にも力を注いでいる。大正10年(1921年)、賀川は同志とともに宗教結社「イエスの友会」を立ち上げている。「イエスの友会」は、人格的社会組織の達成、無戦世界の実現、基督教兄弟愛の実行、人格的労働組合の完成、産業組合の普及、などを主張した。
賀川の宗教思想は、キリスト教というよりは仏教的だと感じる。例えば、「真の宗教は、神自身が我々に乗り移る、神としての人間の経験である」「私は神になりたい、全知全能になりたい・・・・」などの言及が残っている。
この考え方は、神と人間を区別するキリスト教の立場では否定されるものではないだろうか。むしろ、人間のなかに仏(あるいは仏になる資質)をみる仏教的な見方に近い。また、著者は「賀川の思想には創造者である神と被造物である自然との断絶が弱い」と指摘している。(自然法則を直接神の秩序として理解するようになる危険をはらんでいる)
この点も、山川草木を仏(真理、仏法)の立ち現われとみる仏教観に近いと感じる。

賀川豊彦の著作「死線を超えて」は、大正9年(1920年)改造社から出版され、空前のベストセラーとなった。上、中、下巻、あわせて400万部に達したのではないかと推定される。死線を超えて
「死線を超えて」は、主人公(新見栄一)が明治学院高等部を中退して神戸に帰郷するころから、大逆事件(幸徳事件)の判決が下る明治44年(1911年)前後までの、主人公と彼を取り巻く人々の生活が描かれている。
この物語は賀川豊彦の体験を基にした小説だと思われる。物語の前半は、主人公(栄一)と妹の笑子が、継母や父親と衝突して居場所を失う経緯と、栄一と鶴子の恋愛が描かれている。
栄一は鶴子を「鶴子様は福々しい亜米利加美人だが、荘重なところは確かゴシックだ。仏蘭西タイプと型を異にしている」と表現している。
栄一と鶴子の恋愛は非常に情熱的であるが、栄一の会話が女言葉であるところがなんだか不自然で妙におかしい。(私は今ひとつ感情移入できない)
二人の関係は、鶴子が広島の保母養成所に旅立つあたりから急速に冷めていく。そして物語の後半では、主人公が神戸の葺合新川にある貧民窟で、伝道活動に精を出す日々が活き活きと描かれている。
表題の「死線を超えて」の意味は何だろうか、と考えたのだが、このヒントは貧民窟で死んでいった柴田忠吉にあるようだ。柴田は栄一が伝道活動をするなかで出会った貧民窟の住人である。
柴田は腸結核で死に臨む際、彼を看病していた内山に告げる。「内山さん、私はこれから天のお父さんのところへ帰らしてもらいます」
栄一は、柴田が死を勝利で迎えたこと、死の領域を易々と乗り越えた深い信仰心に心を打たれる。

それにしても貧民窟で生活する人々の日常がすさまじい。今日、相対的貧困や所得格差が問題になっているが、当時の貧民窟の生活は絶対的な貧困の中にある。
職業といえば、下層労働者、破戸漢(ごろつき)やばくち打ち、単なる怠け者、乞食、淫売婦・・・などなど。南京虫で寝られなくなったり、酔っ払いの喧嘩は日常茶飯事。コレラやチフスが度々流行して沢山の死者が出る。
冒頭に紹介したように貰い子殺しや、栄養不良による幼児の死も多くあったようだ。このような劣悪な環境のなか、栄一にとって唯一ともいえる救いは子どもたちであった。子どもたちは栄一を「先生」と呼んで慕った。

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