苅谷夏子「評伝 大村はま」

「評伝 大村はま ことばを育て人を育て」(苅谷夏子:著、小学館)は、生涯にわたり国語教育に情熱を注いだ教師、大村はまの幼少期から晩年までを時系列に、丹念に描き出している。評伝 大村はま
はまが国語教師への道を進むきっかけとなったのが、川島治子との出会いである。
「芦田恵之助の目指したものが、川島治子にしっかり受け止められ、それが15才のはまの若い精神に根を下ろした」
芦田恵之助は、大正・昭和初期に活躍した国語教育者である。「芦田恵之助は、旧来の課題主義による範文模倣的な綴方教授に対し、自由に課題を選ばせ、自由に記述させる随意選題主義を唱え、後の生活綴方教育運動の一源流となる。また読みと思考を中心にした読み方教授法の改革をも試みた」(日本大百科全書(ニッポニカ)) 

本書の著者である苅谷夏子氏は、13才から15才までの中学時代、大村はまの生徒であった。生徒である著者は、はまから学んだことを、
「表現するということは、選ぶこと、捨てること、選んだものを意図をもって並べること、それが本当の意味で分かった」
と記している。

はまが生涯取り組んだ教育手法に「単元学習」というものがある。本書には単元学習の1つの事例として、「ことばということばはどんな意味で用いられるか」をテーマにした指導の様子が描かれている。
この部分を読むと単元学習の目指すところと、先生と生徒の間で実際にどのようなやり取りが行われていたのか、が分かる。この事例のテーマ選定からも分かるとおり、はまは、(国語教師だから当たり前なのかもしれないが)「ことば」にこだわり、「ことば」と真摯に向き合っていたことが分かる。
本書には以下の記載がある。
「はまには一つの確信が育っていた。ことばこそが自分と人とをつなぐ。・・・言葉を介して自分は世界と向き合い、理解し、働きかけ、深く結びついていく、そういう確信だった」

私は教育者ではないし、国語力も乏しいから彼女の異才ぶりが本当には分からない。しかし、現場にこだわり続け、常に勉強に励み、一つひとつの授業(仕事)に工夫を積み重ねてきた姿勢は、私たちITエンジニアにも見習うべきところが多いはずだ。
彼女は決して天才肌ではない。生涯努力を続けたプロフェッショナルといえるだろう。
いまひとつ、ITエンジニアとして気になることは、「ことば」を大切にするという、はまの姿勢である。
IT業界には、ジャーゴンとよばれる造語が多い。最近はDX(デジタルトランスフォーメーション)や、ビックデータ、RPA(ロボティックプロセスオートメーション)、ローコード開発などのことばをよく目にする。
これらの流行語は、かつてはIT業界のなかだけで流通していたが、最近は新聞やテレビでも一般用語のように使われる。
例えば、「ビックデータ分析をした結果」などの用法をテレビや新聞で見聞きすると、奇妙な違和感を感じてしまう。ビッグデータとは何だろうか? データ量が多いということだろうか?データ量が多いとはどのくらい多いことなのか、明確な定義があるのだろうか?
データ量が多いというのはトランザクションのこと(1秒間に発生するデータ量のこと)なのか?それとも1日、あるいは1ケ月の累積値のことなのだろうか?
非常にあいまいに使われているように思う。
DXもしかり。いまやDXという言葉を目にしない日はないというくらいである。しかし、そもそも、DXとIT化とは何が違うのだろうか?あるいは、DXと「IT技術を活用したBPR(ビジネスプロセス・リエンジニアリング)」とは何が違うのだろうか?
最近の新聞に書家の石川九楊氏のインタビュー記事が載っていた。
「新型コロナウィルスの感染拡大によって、日本語の乱れが加速し、それがあらわになっている。和製英語のウィズコロナとか、旅に行くという意味のtravelという単語に、行くという意味のgoをさらにくっつけたGoToトラベルとか、今まで考えられなかったような言葉が使われるようになりました。
エビデンスやファクトもよく聞きますが、どうして証拠や事実と言えないのか。・・・・なぜ、そこまで日本語を傷めつけるのでしょう」
IT業界に限らず、私たちは「ことば」を大切にしているとは言えない状況にある。

大村はまには4つ年上の姉、澄がいた。はまは小さい頃、天才肌の姉に嫉妬を抱いていたようだ。
本書には、少女時代のはまと澄を対比した記述があり、この姉妹の性格の違いを端的に表している。
「4つ年上の澄は、すらりと背が高く、細面の美人で、何をやってもそつのない優秀な人であった。手先が器用で、とりわけ絵がうまかった。声も良く歌がうまかった。性格も素直で円満で誰にでも優しい人気者だった。
・・・・一方、はまは背が低く、丸顔で眉が濃く、手先が不器用で絵も字も下手だった。がんばりやでおしゃべりで意地っ張りだった」
はまは生涯頑張り屋(努力家)であったけれども、不器用なのは手先だけでなく、人付き合いも不器用だったようで、これがはまの行く手を阻むことが度々あったようだ。
国語教師としてのはまの熱意と力量は学校のなかでも突出しており、これがために、周囲の妬みや反感をかうことが度々あった。これに彼女の人付き合いの不器用さが加わって、彼女は周囲の教師仲間から孤立し、その結果転籍するようなこともあった。

いまひとつ教育者としてのはまの逆風になったのが受験勉強や、偏差値重視の教育だった。
先にも書いたように、はまは「単元学習」に情熱を注いでいたが、一部の教育関係者や生徒の保護者のなかにはこれに否定的な意見を持っている人たちがいた。
「単元学習をやっていて受験に対処できるのだろうか?」という疑念である。ある校長ははまに対して「あなたに受験生なんか持たせられませんよ」と言ったそうだ。
このような短期目標(受験対策)志向はいまも変わらない。
2022年1月、大学入学共通テストの会場の前で、受験に来ていた高校生の男女など3人が刃物で切りつけられてけがをする、という事件があった。
事件を起こしたのは高校2年生で、勉強に行き詰ったために事件を起こしたそうだ。
短期目標志向は受験に限った話ではない。
昨今の企業は目先の利益(特に株主利益)にばかりに目が行って、中・長期の成長を考えた取り組みがおろそかになりがちである。
また、新型コロナウイルスのパンデミックでは、日本のワクチン開発が欧米に比べて遅れていることが浮き彫りになった。これも長期視点に立ったリスク対策がおろそかになっていたことが要因の一つだと考えられる。

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