「科学者はなぜ神を信じるのか」(三田一郎:著)

2024年9月25日

「科学者はなぜ神を信じるのか」(三田一郎:著、ブルーバックス)は、科学者と神(キリスト教信仰)との関係を解説したユニークな書籍である。科学者はなぜ神を信じるのか本書の目的を、著者は次のように書いている。
「宇宙や物質のはじまりを研究している物理学者や、生命のはじまりを研究している生命学者、つまり『神の仕業』とされてきたことを『科学』で説明しようとしている人たちでさえ、多くが神を信じているのです。これはもう、矛盾でしかないと思われるのではないでしょうか。
この不思議を解き明かしていくことが本書のテーマです」
本書における神は、主にキリスト教の神(三位一体論としての神:父と子と精霊)を指している。
本書を読むと多くの科学者(主に物理学者)が神を信じていること、あるいは神と科学との関係について考えを深めていることが分かる
もちろん、科学者のなかには「私は無神論者である」という人もいる(しかし、あえて無神論を持ち出すということは、科学と神との関係を深く考えているということの証拠でもある)。著者や欧米の人たちが「科学と神との関係」を深く考察している(時に悩んでいる)のに対して、私は特に(科学と神が矛盾なく併存することに)違和感を感じていない。
それは、著者が言うように日本人の多くが無宗教だから、ということが理由ではない。
そもそも日本人の多くが無宗教なのか否かも良く分からない。
日本の宗教には、主に神道や仏教(および、仏教思想に取り込まれた儒教や道教の思想)があるが、これらは日本の文化として定着しているようにもみえる。
茶道や華道などにも仏教思想(主に禅思想)の影響がみられる。
私が違和感を感じないと述べたのは、「科学と宗教は別物だ」という意識があるからだと思う。
仏教思想(主に禅的な考え方)と、科学は相反する面を持っている。
科学は主観と対象(科学的に観察する対象のもの)が分かれていなければならない。一方で、仏教はこのような二項対立的なものの見方を超越しろ、と説いている。
仏教思想は究極には、主観と対象が一体化するから、科学とは別物である。

本書には多くの科学者(主に物理学者)が登場する。本書を通読することで物理学の発展の歴史が概観できる。私が知らなかったこともたくさん書かれている。
本書のトピックのなかで特に印象に残ったものをいくつか書き出してみる。

・地動説
地動説はコペルニクスやガリレオが提唱したと思われがちだが、実際にはずっと前からあったそうだ。
その起源は、紀元前5世紀のピタゴラス派にまで遡るそうだ。ピタゴラスは音楽を数学で表現し、宇宙も数学で表現できるはずだと考えたらしい。この発想は実に今日的だと感じる。
これはケプラーの言説、
「天文学者は自然の聖書をもとに神に仕える牧師である」
幾何学は唯一永遠の学問であり、神の考えを写す鏡である」
にも通じるところがあると感じる。

・ニュートンの「驚異の1年半」と、アインシュタインの「奇跡の年」
ニュートンは25才からの1年半の間に、
「運動方程式の確立」、「万有引力の発見」、「微分積分法の開発」を成し遂げた。
一方、アインシュタインは26歳の時に3篇の論文を発表している。
「特殊相対性理論」、「ブラウン運動」、「光電効果の理論(光量子仮説)」
天才は若い時に力を発揮する、しかも極めて集中的に、ということだろうか。

・ボーアやパウリの世界観
ボーアはインド仏教や陰陽思想にも関心を持っていたようで、これはアインシュタインの決定論的な世界観と対立するものであった。
パウリも精神世界や神秘主義に強い関心を持っていたようで、物理的な世界観(西洋科学)と東洋的な精神世界は相補的だと考えていたようだ。
これは先に記したように、「科学は主観と対象が分かれていなければ成立し得ない」のに対して、仏教思想は主観と対象(客観)の対立を超越しようとしたことにも符合する(と、思う)。

最後に著者は、
「私自身は科学法則の創造者を『神』と定義しています」
と述べている。
「宇宙の真理は、数学という厳密なことばで表現できる」と考える科学者は多いと感じる。この宇宙の真理や、その法則を創造したのが神だと考えれば納得はできる。
しかし、このような考えは東洋思想(特に仏教的な考え方)とは異なると感じる。
先に書いた主観と客観という視点だけでなく、東洋思想には汎神論的なところがある。例えば、山川などの自然そのものを「仏(別の言い方をすると真理)」とみるところがあるからである。

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Posted by kondo