コンピューター(人工知能)が人間の知能を超える2045年問題というのがあるらしい。
コンピューターの処理能力がムーアの法則に従って向上していくと、2045年にはコンピューター(人工知能)が人間の知能を凌駕し、以降科学技術の進歩はコンピューターが担っていくという話のようだ。(この文脈で「技術的特異点(シンギュラリティ(Singularity))」という用語が使われる)
これはにわかには信じがたい仮説である。当然のことながらこれに対する反論も出ている。
茂木健一郎氏と竹内薫氏によるロジャー・ペンローズの解説書「ペンローズの<量子脳>理論」にも、人工知能の限界に関する話題が出ている。ロジャー・ペンローズは数学者、数理物理学者であり、レオン・レーダーマン、クリストファー・ヒル著「詩人のための量子力学」のなかでも彼の著書が紹介されている。
「ペンローズの<量子脳>理論」は、ペンローズの著作「心の影」や「皇帝の新しい心」にまつわる解説本(入門書)であるが、数学と量子力学(さらにはペンローズの量子重力理論:ツイスター理論)を扱っていることから入門書にしては難解な内容である(私自身は半分も理解できなかった・・・)。
さらに、茂木健一郎氏の思い入れや私見が入っていることと、解説のほかにもインタビュー記事や邂逅記事などが挿入されており、少々雑多な構成になっていることが、本書を余計に分かり難くしていると感じる。
本書によれば、人工知能は1960年代後半から1970年代初頭にかけてブームと言って良いほどの盛り上がりを見せた。私の記憶では、AI(人工知能)はまるでファッションのように、何度かブームになり、その後下火になるということを繰り返しているように思う。最近では、機械学習のキーワードで注目されることが増えているようである。
1970年代初頭のブームの当時、人工知能研究者は人間の知性の再現に成功するのは時間の問題だと思っていた。それどころか、人工知能を載せたコンピューターが意識を持つことさえあり得ると考えていたようだ。そんななか、1972年ヒューバート・ドレイファスという哲学者が「コンピューターにできないこと」という本を出版した。この本は当時の人工知能研究者に衝撃を与えた。
「ドレイファスの人工知能批判の要点は、人間の知性の本質は、人工知能の研究者が考えているようなシンボル間の関連と、シンボル操作(シンタックス)にあるのではない。人間の知性は、シンボルの意味(セマンティックス)抜きでは成立しない」というものである。
すなわち、現在のコンピューター(チューリングマシン)は単にシンボルを操作しているだけで、シンボルの意味(セマンティックス)までは理解出来ない、との指摘である。
ペンローズの人口知能批判も、このドレイファスの批判の流れの延長にある。
ペンローズの論点は「意識」と「計算可能性」にある。
現在のコンピューター(チューリングマシン)は、計算可能なプロセスしか実行できない。しかるに人間の意識は「計算不可能」なプロセスが実行できる。従って、人間の意識はコンピューター以上のことができるという。
そして、ここからが少しぶっ飛んでいるのだが、「量子力学の波動関数の収縮の過程には計算不可能なプロセスが含まれている可能性がある」、「それゆえに、意識には量子力学が関わっている」というのだ。
そして、「意識はマイクロチューブルにおける波動関数の収縮として起こる」としている。
意識に量子力学(量子重力理論)が関わっているというのは、我々凡人には信じがたい、というか受け入れ難い仮説である。個人的には、茂木健一郎氏の解説「意識の問題を解決できる可能性があるのは科学である」という主張も、そして、そもそも意識や心が脳にあるという説も受け入れ難い。
茂木健一郎氏は解説の中で仏教経典を引用して、意識を「精神現象のある瞬間における集合」や、「明瞭な、お互いに独立した、永続しない瞬間が、生成したと同時に消滅する過程である」と書いている。 しかしながら、そもそも仏教思想には心と身体(からだ)を分離するような考えは無いはずである (魂魄という考えがあるが、これは古来中国の思想であって仏教本来の思想ではない)。
心身一如という言葉があるように、心と身体は不可分である。 個人的にはこの心と身体が不可分であるという考えの方がしっくりくる。脳単独で心が生起するとは考え難いのである。目や耳や口や鼻や皮膚などの感覚器官から入る情報は、心が存在するための条件だと思える。感覚器官やその他の身体と脳を切り離して、脳に心があるとする考え方は、それが科学的に証明可能だとしても納得感がない。
身体を分解して心の在り処を分析するやり方は、「蚯蚓(みみず)が斬れてふたつになったが、両方とも動いている。仏性はどっちにあるのか?」と言うようなものである。
そうはいっても、私も科学的な方法を全面否定している訳ではない。今のレベルではどうもしっくりこないと言っているだけである。
例えば、もし意識がマイクロチューブルから生起するとするなら、マイクロチューブルは脳以外にもある訳だから、意識が生起する場所を脳に限定する必要はないはずである。
さて、意識の科学的解明に関して、本書によれば、「今後もし『意識』の問題に飛躍的な発展があるとすれば、それは数学的言語を通してのみ可能だろう。アインシュタインの式(E=mc2)のような、一見全く無関係に思えるものを結びつけるような式が現われて、初めて本質的な進歩があったと言えるのだ。
逆に言えば、数学的言語に基づかない、『言葉』=自然言語に基づく議論は、いくら積み重ねても限界がある」とのことである。
数学や物理学に関して見識がある人は、宇宙の真理(宇宙を存在足らしめるもの)は数式であると考える人が多いようだ。数式には実体(モノ)がないから、ある意味これは東洋思想に近いのかもしれない・・・・。
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