浦安
![]() 浦安はもともと江戸川河口の三角州上にあった漁村である。明治22年に堀江、猫実、当代島が合併して浦安村が誕生した。昭和の初めまで海苔の養殖と漁業が盛んであったが、経済成長と工業化の波が町の風景を急速に変えていった。 昭和43年に沖の百万坪が埋め立てられ、東野、富岡、弁天などの新しい町が誕生した。埋め立てはその後も進み、海楽や美浜、舞浜などの新しい町が次々と生まれた。 浦安の旧跡は旧江戸川の土手と境川周辺に点在している。境川に沿って、猫実、堀江の町を散策した。 |
![]() 青べか物語には船宿千本の名で登場する |
![]() この辺りはかつて蒸気船の発着所があったことから蒸気河岸と呼ばれていた。 蒸気船は深川の高橋から小名木川、新川を通り、浦安を経由して行徳までを運行していた。 |
![]() 浦安橋の途中から妙見島に降りることができる。 妙見島は旧江戸川の中州である。現在は工場群とマリンクラブがある。島内の道路はトラックの往来が激しいため、残念ながら散歩には不向きである。 |
![]() |
![]() 浦安三社の一つ清瀧神社は、建久7年(1196)の創立 |
![]() 屋号を藤村屋と称し、米屋、油屋、雑貨屋、呉服屋などを営んでいた。 |
![]() |
![]() 昭和4年の建築であるが、平成8年まで診察を続けていたという。 |
![]() しなび家の主人が江戸に行商に行った際、焼け野原で首が欠けた地蔵尊を見つけ、これを修復して供養したと伝わる。 |
![]() その近くに手焼きせんべいの老舗(明治21年創業)、浅田煎餅本舗がある。 |
行徳の塩と「おっぱらみ」の由来現地案内板に「おっぱらみ」の由来が書かれている。これを読むと、江戸時代、行徳に塩田があったことがわかる。 |
![]() 樹齢350年を超えるといわれている。 幹は六股(七股?)に分かれており、その姿はヤマタノオロチを思わせる。 豊受神社は浦安三社の一つである。 |
![]() かつては東水門から先は海であった。 周辺には海楽園や富岡の池があった。富岡の池とは、富岡家が経営していた養魚池。 また、「秋山の金魚池」と呼ばれる金魚の養魚場がこの付近にあったとのこと。昭和45年から始まった海面埋立事業で周辺の都市化が進み、昭和58年に池は埋め立てられた。 |
![]() べか船は、一人乗りの海苔採取用の木造船。 小さいながら船の中央には帆桁もあり、小さな三角帆を張ることができた。べか船が広く使われるようになったのは、東京湾の海苔養殖が本格化した明治時代の終わり頃だといわれている。 |
![]() 漁師町として栄えていた頃の浦安を再現している。 写真手前がべか船である。 |
![]() 西洋の物語風の外観は、イギリス・コッツウォルツ地方の建物を再現したそうである |
![]() かつて漁場であった場所である。 「沖の百万坪」はこのあたりまで広がっていたのだろうか。 昭和43年の埋立によって、東野、富岡、今川、弁天などの新しい町が誕生した。 |
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません