石川幹人「人間とはどういう生物か」(ちくま新書)に、AI(人工知能)に関する興味深い話がでている。
この書籍は今の第3次AIブームが起きる前の出版である。技術変化の早いなかにあっては少々古い内容なのかもしれないが、逆に、AIや現在のコンピュータに関する本質的な課題が浮き彫りになっていると思う。また、著者の視点も新鮮で、時に斬新である。
AIに関して、昨今のマスコミは「すごいこと」ばかりを報道しているが、この点についても、
「機械が人間に近づいたという報道はなされるが、機械が人間に近づけなかったという報道はされない」
とスルドイ。
著者の立場を端的に示しているのが、「人間とは意味する存在である」という洞察である。(マイケル・ポランニーの思想、およびそれを輸入した栗本慎一郎氏の思想が基になっていると思われるが・・・)
現在のコンピュータが本質的にやっていることは、記号(シンタックスス)の書き換えであり、「意味」は理解していない(人間のような意味作用を持たない)としている。
この点が現在のコンピュータ(およびそれを使用しているAI)と、人間との本質的な違いのひとつである。
AIのなかでホットな話題は、脳の神経細胞を模したニューラルネットワークを使った深層学習だろう。石川氏は、このニューラルネット(コネクショニズム)についても、
「人間の学びを神経回路における機械的な学習として考える風潮が広がっているが、これは誤りだ」
と指摘している。
私たちは「ことば」を使って他者と会話をする。言語は形式的な記号の連なりであるが、それには意味が内包され、それによってお互いのコミュニケーションが成立している。
この一見単純な仕組みも、記号と意味という観点で見ると簡単なことではない。安西祐一郎「心と脳 -認知科学入門」(岩波新書)によれば、「なぜ記号に意味が内在するのか」は、「記号接地問題」といって未解決の課題なのだそうだ。
未解決の課題だとすれば現在のコンピュータに意味を理解させることが容易でないことは確かだろう。ニュースなどでロボットが人間と会話をする場面が報道されることがあるが、これはロボットが意味を理解して会話をしているわけではない。コミュニケーションが成立しているかのように見せかけているだけだ。
私はAIについて詳しくないが、AIを人間に近づけるためには、心や脳の働き、言語に関する課題など、認知科学や神経科学、言語学などの知見が必要であろうことは想像がつく。
そしてこれらの分野には未解決な課題がまだ沢山あるから、AIが人間に近づくためにはこの先も相当の困難が待ち受けているだろう。
「心とは何か」あるいは「意識とは何か」を考えるとき、必ず脳の話が出てくる。先の「心と脳 -認知科学入門」におもしろい話が出ている。
「心の研究を重視する人は、脳の研究をしたところで心は分からないと考えていることが多い。一方、脳の研究を重視する人は、脳を研究すれば心が分かると思っていることが多い」
「人間とはどういう生物か」の著者である石川氏は、心は脳に還元できないという立場である。
「心を脳に閉じ込めるのではなく、そろそろその箱から解放してあげても良さそうだ」と言っている。
石川氏はまた、心の解明に関して科学的な手法には限界があることを指摘している。科学的手法とは、モノを要素に分解して解明していくやり方、分析的手法(あるいは還元主義)を指している。
こころ(人間が持つ意味作用)を解明するには、分析的アプローチではなく、全体をとらえるやり方が重要だという。
「デジタル思考が意味を損なう。・・・・全体的な特徴は部分に分けると失われやすい」と指摘している。(この文言はG.バタイユの「部分の総和は全体にならない」を意識したものかもしれない)
分析的アプローチと全体的アプローチに関しては、社会心理学者のニスベットがおもしろい指摘をしている。
「西洋人は分析的(analytic)な認知をするのに対して、東洋人は全体的(holistic)な認知を行う傾向がある。分析的思考は西洋の個人主義文化において適応的であり、全体的思考は東洋の集団主義文化において適応的である」(仲間紀子「認知心理学」ミネルヴァ書房)
分析的思考と全体的思考は、例えば、心と体についても同様である。心と体は別物で、心は体という容器の中にある(あるいは心は脳の中にある)と分析的に考える方法と、心と体は切り離せない、と全体的に捉える方法とがある。
東洋的なものの見方(特に仏教的な見方)に従えば、心身一如、心と体は一体である、と考える傾向が強いと思われる。
心身二元論を唱えたのはデカルトであるが、スピノザは一元論の立場だという。一元論は東洋に限った話ではないようだ。 (注)
石川氏のユニークな点は、心を「意味作用の場」としてとらえていることだろう。
「人間の心には意識面と無意識面があり、それらは協調して暗黙知を実現し、意味を形成している」とし、
「意味作用の場としての心は、空間的に拡がっていると同様に時間的に過去にも拡がっている」という。
心は体という容器のなかに閉じているのではなく、社会に対して開かれている、さらに時間的にも広がっているということだろうか。
心と社会の相互作用に着目している人は他にもいる。アフォーダンス理論では、心の働きは心の中にあるのではなく、環境と人間の関係の中にある、とみている。
認知科学も心と脳と社会を総合的に捉える方向にあるようだ。
「心の自覚する部分は意識であり、私たちは意識的な人間として生きると思い込みがちであるが、実際のところ心を支えているのは意識ではなく、無意識である」という。石川氏はスポーツや音楽を例に、無意識の部分の重要性を指摘している。
実際のところ、スポーツや武道では無意識に体を動かしているときに高い効果(成果)が得られる。本番の舞台でいちいち意識して体を動かしていたら反応が遅くなってしまう。そこで、普段の練習が重要になってくる。練習では意識的に体を動かすとしても、同じ動作を繰り返すことで無意識に体が動くようになる。
石川氏は、「人間の心には意識面と無意識面があり、それらは協調して暗黙知を実現し、意味を形成している」という。
石川氏の斬新なところは、心の働きや進化の過程に量子論を持ち込んでいる点であろう。例えば暗黙知について、
「暗黙知を量子過程の用語で言い換えると次のようになる。近似項の諸要素が個々に持つ可能性が諸要素全体にわたって相互に重ね合わされ、遠位項を焦点化したところで全体的に整合なかたちに配列した諸要素のパターンが観測される」としている。
これは量子アニーリング方式で組み合わせ最適化問題を解くとき、基底状態に落ち着くまでの過程に似ているように思う。
諸要素(量子ビット)それぞれの重ね合わせ状態と、要素間の相互作用があり、最終的に全体的に整合な形(基底状態)に収束する、と言い換えられそうだ。
「心と脳 -認知科学入門」に「ことばの理解モデル」というのが紹介されているのだが、ここにも同じような様相がある。
「人は基本的に、音韻、形態素、文法、意味、文脈などの情報をお互いに関係づけながら並行して処理し、全体の意味を理解しようとする。
例えば、米国の言語心理学者ベイツとマックウィニは、音韻から文脈に至る各種の情報処理が競合し、確率的に最も妥当と思われる情報処理が優先することで文の意味解釈が進むというモデルを考えている」
このモデルも各要素(量子ビット)の重ね合わせと相互作用、その後収束するまでの挙動と類似している。
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