水上滝太郎「山の手の子」(青空文庫)は、主人公である「私」が20年前の幼少期の思い出を綴る形で描かれている。
作者がこの小説を発表したのは明治44年(1911年)とあるから、作品に描かれている品川の町の風景は明治時代の中頃~後半のものだろう。
ずっと昔の風景であるにもかかわらず、そこに描かれている町並みだとか、子どもたちが遊びに講じる姿など、どこか懐かしさを感じる。
私(主人公)は、山の手の高台の頂にある黒門の大きなお屋敷の子として生まれた。現代風に言えば恵まれた家庭環境にある「おぼっちゃま」ということになるのだが、私は孤独な悲哀(かなしみ)をしみじみと感じている。
山の手の家はどこも牢獄のような大きな構造の家がいかめしい塀を連ねており、広い庭には木々が鬱蒼と茂っている。
私の生まれた家も同様、広い庭は大木が造る影ですっかり苔むして、日中も夜のようだ。
幼少の私が感じている悲哀(かなしみ)は、じめじめと暗い屋敷と庭の風景、厳格な父親、そして同じ年頃の友達が周りにいない孤独に由来しているのだろう。
ある時私は庭の奥深くへと足を踏み入れる。
「まだ見ぬ庭の木立の奥が何となく心をひくので、恐々ながらも幾年も箒目も入らずに朽廃した落葉を踏んでは、未知の国土を探求する冒険家のように、不安と好奇心で日に日に少しずつ繁った枝を潜り潜り奥深く進み入るようになった」
やがて、庭を突き抜けるとカラリと晴れた日を浴びた崖にでた。その崖からの眺めが美しい。
「眼の下には坂下の町の屋根が遠くまで昼の光の中に連なっている。その果てに品川の海が真蒼に輝いていた」
何度かその崖に出かけるようになり、やがて私は崖下の町の子供たちと仲良くなる。
乳母からは、「町っことお遊びになってはいけません」と止められていたが、毎日のように町に降りて町の子供たちと遊ぶようになる。
崖の上のお屋敷と崖下の町との対比から分かるように、この時代は身分の違い、階級の違いがはっきり意識されていたと分かる。
町の子供たちは私を「坊ちゃん」と呼ぶ。
「比較的に気の弱いお屋敷の子は荒々しい町っこに交じって負(ひけ)を取らないで遊ぶことは出来なかったが彼らは物珍しがって私をばちやほやする」
だが坊ちゃんに対するこの”ちやほや”は長続きしない。
「坊ちゃん坊ちゃんと囃し立てた子供も、やがて煙草屋の店先の柳の葉も伸び切ったころには全く私に飽きてしまって坊ちゃんはもはや大将としての尊敬は失われて金ちゃんの手下の一人に過ぎなかった」
子どもたちには階級の違いなど関係なかった。
この時代の町っこの遊びは、独楽廻しやメンコであった。(紙のメンコが普及したのは、段ボールと印刷技術が進歩する明治10年代~20年代のようだ)
町っこの遊びにまつわる興味深い話もある。
「その草の中にスクスクと抜け出た虎杖(すかんぽ)を取るために崖下に打ち続く裏長屋の子供らが、険しい崖の草のなかをがさがさあさっていた」
子どもたちは虎枝(すかんぽ)を引き抜いて、その枝を噛んで汁を吸っていたようである。
一方、山の手の子供である私は、親から洋刀(サアベル)や、喇叭(ラッパ)、鉄砲などの舶来の玩具を買い与えられていた。
私(主人公)が唐物屋に獣や花や人の絵を白紙に押し付ける「西洋押絵」というものを買いに行く場面。
「坊ちゃん。今度はメリケンから上等舶来の押絵が参りましたよ」
この「西洋押絵」というのは今日でいう「転写シール」のようなものだと思われる。
町に遊びに行くうち、いつしか私は魚屋の金ちゃんの姉であるお鶴さんに淡い恋慕の情を抱くようになる。お鶴さんも坊ちゃんを可愛がってくれた。
「『坊ちゃん。ここにいらっしゃい』とお鶴はいつも私をその膝に抱いて後ろから頬ずりしながら話の中心になっていた」
町に夕闇が迫り、私は崖下の町に別れを告げて家路につく。
「遠ざかり行く子供の声をはかない別れのように聞きながら一人で坂を上って黒門を入った。夕暮れは遠い空の雲にさえ取り留めもない想いを走らせてしっとりと心もうちしめりわけもなく涙ぐまれる悲しい癖を幼いときから私は持っていた」
幼年期の主人公が心の奥底に抱えていた悲哀(かなしみ)や孤独、得体のしれない恐怖などの感情を風景描写とあわせて丁寧に描いた小品だと思う。
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