瀬戸内晴美「遠い声」

2023年8月21日

瀬戸内晴美「遠い声」は、大逆事件(幸徳事件)で死刑に処せられた菅野須賀子(スガ子、スガ)の物語である。
須賀子は大逆事件で裁かれた26名のうちで唯一の女性である。物語は、赤旗事件の後から死刑執行までの間を中心に、須賀子を取り巻く男たちとの愛憎が描かれている。
単行本の最後には、「付 いってまいります さようなら」という作品が掲載されている。こちらは同じ大逆事件で裁かれた古河力作の、死刑判決を受けてから刑が執行されるまでの心情を描いている。
この「付」が何故付け加えられたのか、私はその経緯を知らないが、水上勉の「古河力作の生涯」と呼応しているようで興味深い。大逆事件は、大日本帝国憲法の第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」および、これに関連する刑法第73条「天皇、太皇太后、皇太后、・・・・に対して危害を加え、または加えんとした者は死刑に処す」によって裁かれた事件である。
私は法律の専門ではないので詳しいことは分からないが、「加えんとし」とあるから、計画や意思があっただけでも極刑になるということだろう。
計画はともかく、意思は個人の内心のことであるから裁くにしても根拠があやふやで恣意的である。
大逆事件では天皇暗殺計画があったとされるが、その計画というのも随分と杜撰で実施時期や方法も曖昧である。この暗殺計画の存在を知っていたのは5名ほどで、残りの21名は一般に冤罪(検察による誘導やでっち上げ)だと言われている。

この事件が幸徳事件と呼ばれることから、中心人物は幸徳秋水であるかのように思われがちだが、秋水は理論家であり筆で戦うタイプであるから、暗殺計画には本気でなかったと考えられる。(本書もこの見解に立っている)
一方の菅野須賀子は自らを革命家と呼ぶほどの行動派であるから、計画をいつ実行するかはともかくとして、実行の意思は有していたようだ。
そんな須賀子であるから、秋水がこの計画に乗り気でないことを感じるようになってから、彼女の心は次第に秋水から離れていく。

須賀子は恋多き女として描かれているが、彼女と関係する男たちの下半身もだらしがない。
幸徳秋水は理論家として社会主義者・無政府主義者の中心的人物であったが、女性関係は乱れている。二番目の妻であるお千代さんと離縁したのち須賀子と関係を持つのだが、その一方でお千代さんと撚りを戻そうと画策する。
著者の見方によれば、須賀子が最後まで愛していたのは荒畑寒村であったようだ。

菅野須賀子が政府やその権力に対して憎悪を抱くようになったきっかけは赤旗事件であった。
赤旗事件は、山口孤剣の出獄歓迎会の後、赤旗を翻した一部の社会主義者と警官が揉み合いになった事件である。この事件で荒畑寒村は千葉監獄に投獄されたが、菅野須賀子は無罪になる。
堺利彦は赤旗事件の経緯を「赤旗事件の回顧」(青空文庫)に記している。事件から20年後に書かれたからだろうか、作者の筆致はおおらかで、警官と乱闘になる場面はまるでどんちゃん騒ぎである。神田署に連行された後、拷問を受けた者もいるらしいが、ここでも筆致は変わらず暗さや陰湿さは感じさせない。ドタバタ劇の延長みたいに描かれている。
この事件以後、社会主義者や無政府主義者に対する政府の取り締まりが強化されていく。

大逆事件では一度に12名もの人が死刑に処せられた。
判決からわずか6日後の明治44年1月24日に11名の死刑が執行され、翌25日菅野須賀子に対して死刑が執行された。須賀子だけ翌日になったのは、24日の執行が夕方まで続き時間切れになったためである。 (これはなかなかゾッとする話だ)
死刑の大量執行という点で思い起こすのはオウム真理教である。
オウム真理教の一連の事件では、2018年7月6日に7人の死刑が執行され、同月26日に6人の死刑が執行された。13名という大量の執行があったことから、メディアやWeb上で、死刑制度そのものの是非を問う議論が増えた。
大逆事件で死刑に処せられた人のなかには冤罪の人が含まれているし、暗殺計画も実行に移されていないから、同じ大量執行でもオウム真理教とは質的に異なる。
菅野須賀子は処刑台に臨む時も毅然としていた。水上勉「古河力作の生涯」に、須賀子の処刑に立ち会った看守の証言が載っている。(看守の証言はこちらを参照


本書には、菅野須賀子はその容貌に対するコンプレックスから隆鼻術の施術を受けたことが記載されている。
一方、「飾らず、偽らず、欺かず 菅野須賀子と伊藤野枝」(田中仲尚 岩波書店)によると、隆鼻術は誤伝であり、実際には蓄膿症の手術であったようだ。伝説的な女性であるから流言飛語に類する逸話があったのかもしれない。

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Posted by kondo