2019年 3月

小学校のプログラミング教育やアクティブラーニングが話題になるにつけて、論理的思考の重要性が主張される。確かに、物事を論理的に考えることは重要であるが、時にはこれが非常識になる場合もある。また、人を説得するときは、論理的であれば説得力が増すだろうが、必ず説得できるわけではない。(人は論理的だからといって、必ず納得するわけではない)
哲学者が書いた本を読むと、「そんなことまで突き詰めて考えているの?」と驚くくらい、深く、論理的に考えている。論理的思考の訓練がしたい人は、哲学者や論理学者の書いた書物を読むと良いだろう。
私はそこまでの根性がないから、この手の本を読んで著者の論理を追っていくのが、途中で面倒くさくなってくることがある。特に、論理を緻密にしようとすると、新しい概念が必要になるときがあり、そこで新しい概念を表す造語が作られる。この新しい造語の意味を理解するだけで疲れるときがある・・・。

今回は論理的思考が非常識になる例をあげてみる。
「心という難問 空間・身体・意味」(野矢茂樹、講談社)におもしろい話が出ている。哲学者である大森荘蔵は、他我問題について次のように語ったそうだ。他我とは自我に対する造語で、他人の自我というほどの意味である。
「他人の痛みを私が痛むことは出来ない。それは事実的にできないのではなく『論理的に』できないのである。つまり他人と私という分別に意味がある限り、他人の痛みを私が感じ取るということは意味をなさないのである」
少々解りづらい言及だが、この文章の意図するところは概略以下のとおりである。
私の手のひらに針を刺したとしよう。私は「痛い」と言って顔をしかめる。その時、私の心(意識)には確かに「痛みの感覚」がある。
では、他人の手のひらに針を刺したらどうなるだろうか?
多分、同じように「痛い」と言って顔をしかめるだろう。この時、他人も「痛みの感覚」を覚えたと推測できる。
しかし、大森荘蔵はここで疑問を呈している。
私が感じた「痛みの感覚」と、他人が感じた「痛みの感覚」は本当に同じなのだろうか? と。なぜなら、私は他人の痛みの感覚を感じていない。他人の感覚を私が感じることは不可能である。つまり私は、他人も私と同じような「痛みの感覚」を覚えたに違いないと「推測しているだけ」であり、本当に同じかどうかは分からないのである。
この論理は正しいと思われる。犬や猫の手に針を指したらどうなるだろうか?
多分、犬や猫も痛そうな表情や仕草をするに違いない。しかし、犬や猫が感じている「痛みの感覚」が私と同じものなのか否かは分からない。他人の痛みも同じである。

(以下は、この議論を私の方で拡張してみたものである)
さて、この論理を普段の社会生活で使うとどうなるだろうか?
私の友人が最愛の妻を亡くしたと仮定しよう。私は友人の妻の葬式に参列する。葬儀場で友人は深い悲しみの表情を浮かべてうなだれている。私は友人にそっと近寄り、そして声を掛ける。
「残念ながら、私が君の心の痛みを感じ取る、ということは(論理的に言って)意味をなさないのである」
・・・まあ、間違いなくそこで友情は終わるに違いない。つまり、論理的に正しい発言は非常識になるわけだ。

自分が感じる感覚と、他人が感じる感覚が本当に同じかどうかは結構怪しい(と、だんだん思えてくる)。
ここに柔らかなダウンコートがあったとしよう。そのダウンコートを手で触ってみると、すごく柔らかで暖かい。他人が触っても同じように、柔らかさや暖かさを感じるだろうか?
それは私が感じたのと同じ感覚(質感)なのだろうか?
これはクオリア問題とも関係するのだろう(本書にはクオリア問題に関する言及はないけれども)。

先ほどの、最愛の妻を亡くした友人の話で、AI(人工知能)を搭載したロボットを登場させるとどうなるだろうか?
ロボットが友人の妻の葬式に参列する。葬儀場で友人は深い悲しみの表情を浮かべてうなだれている。ロボットは友人にそっと近寄り、そして声を掛ける。
「あなたの深い悲しみを思うと心が痛みます」
今の技術でも、友人の顔の表情を(画像認識で)読み取って、ロボットにこのように話をさせることは可能だろう。友人はロボットのこの発言を聞いてどう思うだろうか? 友人は多分こう言うだろう。
「君は最愛の人を亡くした経験があるのか? その時どんなに悲しい気持ちになるのか、君に分かるというのか?」
友人は間違いなく、ロボットが感情や感覚を持つことに疑いを抱いている。実際、今の技術の延長線上で、ロボットが感情や感覚を持つことは不可能だろう。

論理的思考をめぐって、もう一つ例をあげておこう。
これは、「自由の条件」(大澤真幸、講談社)に出ていた話を若干アレンジしたものである。
ある地方で災害があり、ある母親の息子が災害に巻き込まれたと仮定しよう。この災害では、多くの人が罹災した。死んだ人がいるという情報も入ってきているが、まだ被害の詳細は明らかになっていない。
このような時、母親が息子の無事を願って(神様や仏様に)祈りを捧げるのはごく普通の行為である。この母親の「祈る」行為に対して、次のようなアドバイスをしたとする。
「貴方の息子は既に死んだか、生きているかのいずれかである。もし死んでいるとしたら、あなたの祈りは無効だ。もし生きているとしたら、あなたの祈りは無意味だ。従って、祈りは無効か、さもなくば無意味であるから、不合理である。」
この発言は論理的に正しいが、間違いなく皆から非難を浴びるだろう。
先の例と同じく、論理的に正しい発言が非常識になるわけだ。もちろん、すべての論理的発言が非常識になるわけではないが・・・。

 


なお、著者(野矢茂樹)は、「私は他人の痛みを感じることができない」という言説は真理ではない、という立場である。
著者がいう眺望論においては、「痛み」の意味は感覚的眺望として捉えられる。そして、感覚的眺望は身体状態の関数であり、私や他人などの主体はこの関数のパラメータには含まれていない。すなわち、感覚的眺望のありようを規定するのは身体状態だけである。
著者は、「感覚説を否定し、”他人の痛み”に意味を与えるように、”痛み”という概念を捉え、理論化したものが眺望論である」としている。
著者の眺望論、相貌論では、世界の在り方(W)は、対象の在り方(o)と、対象との空間的位置関係(s)、身体に関わる要因(b)、意味に関わる要因(m)の関数として定義される。すなわち、
W=f(o,s,b,m)
である。

 

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