2016年 1月 23日

青べか物語は千葉県浦安市(作品の中では浦粕町という呼び名である)を舞台にした連作小説である。
この作品が発表された昭和35年ごろ、この作品が小説か否かという論争があったらしい。作者によればこの作品は小説ではなく、小説のエッセンスだけを抽出した作品ということのようだ。青べか物語
青べかの「べか」とはべか船のこと。べか船とは櫂でこぐ(時に小さな帆を掛ける)一人乗りの小船である。この本、表題こそ青べか物語となっているが、内容は東京から浦粕町にやってきた私が見た、浦粕町の風景や、そこで働く人々、あるいは子供たちの日常の出来事を写生した小品集である。

作品に登場する私とは、作者の山本周五郎自身のことであるが、作品に描かれている内容が実際に作者が見たり経験した事実なのか否かは定かではない。
例えば、作品の中では私は浦粕町に3年余り住んでいたことになっているが、実際のところは1年弱だったようだ。この辺りの事情は「青べか慕情(写真:石井久雄、文:木村久邇典)」に詳しい。

作品に描かれている浦粕町は、昭和3年~4年頃の浦安である。
地下鉄東西線が開通するまでの浦安は、東京の近郊ながら陸の孤島と呼ばれ、貝と海苔と釣り場で知られた漁村であった。
東京と浦安を結ぶ主な交通手段は船であった。深川の高橋と江戸川に臨んだ千葉県行徳町を運航していた定期の蒸気船である。
「高橋から船で東京湾に出て、江戸川に入って浦安に行くか、陸路を通るとすれば錦糸町から城東電車で今井に行き、江戸川は渡しに乗って浦安に上がる」(「青べか慕情」より)

浦安の風土を代表する象徴的な風景が「沖の百万坪」である。作品の中では次のように表現されている。
「そこはたしかにその名にふさわしい広さをもっていた。畑といくらかの田もあるが、大部分は葦や雑草の繁った荒地と、沼や池や湿地などで占められ、その間を根戸川(旧江戸川のことだろう)から引いた用水掘が、荒地に縦横の水路を通じていた。」
さらに沼や池や葦の繁みには、カワウソやイタチなどが棲んでいたという。

沖の百万坪

沖の百万坪に建つ弁財天(「青べか慕情」より)

「青べか慕情」の写真でみると、沖の百万坪は1970年くらいまでは未だ残っていたようで、その後埋め立てられて団地や住宅が次々と建設されていった。

作品に登場する風景は、のどかで、どこか懐かしい漁村の風景だが、そこに登場する人々は、いたずら盛りの悪がきや、よそ者からぼったくろうとする者、両親に捨てられて乞食同然の暮らしを強いられている幼い姉妹、信じ難いほど劣悪な環境で働く石灰工場の人々などなど・・・・、悲惨で、猥雑でありながら活気に溢れ、そしてどこか滑稽だったりする。そして全編を通じて物語の背後に作者の穏やかな眼差しが感じられる。

それにしても底辺の人々の生活は凄まじい。
石灰工場では、男も女も全裸で、全身石灰(貝殻を粉砕した粉)まみれで仕事をしている。
「かれらの姿を初めて見たものは、おそらく一種の不気味さに襲われるだろう。かれらは男も女も裸で、細い下帯のほかにはなにも身につけていない。また、頭はみなまる坊主に剃り、眉毛もないし、腋やその他の躰毛もすべて剃りおとしているといわれる。
それは石灰粉が毛根に付くと毛が固まるからだそうで、胸とか腰部を見なければ、男女の差は殆どわからなかった。
・・・・眉毛のないとろっとした眼や、いつも結んだまま動くことのない唇など、見るものに異常な、非人間的な印象を強く与えた。」

”繁あね”は悲惨で過酷な運命を背負いながらもたくましく生きている。
「繁あねは町じゅうでもっとも汚い少女だといわれていた。乞食あま。親なしで家なし。墓場に供えられる飯や団子を喰う餓鬼、それがお繁であった。躰はできものだらけで、胸のところは腫物の膿のため、着物がはりついて取れなくなっている。いつもどこかの海苔漉き小屋か、納屋か、ひび置き場に寝る。風呂へ入ることはないし、顔も洗わない。虱だらけ蚤だらけである。
もちろん親類もなく遊ぶものもいない」
「そのまえの年、お繁は妹と二人で両親に捨てられた。妹は生まれてから百日くらいしか経っていなかった。」
それにしても、生後百日の赤子を、無一文で身寄りもない少女が育てられたのであろうか・・・。

最後に、青べか物語には、私が浦粕町を去ってから8年後に再訪した時の様子、さらに30年後に訪れた時の町と懐かしい人々の様子が描かれている。30年後の再訪時、多分昭和35年頃かと思われるが、この時すでに町の美しい景色の幾つかは工場や農薬で破壊されていたという。「いまでは底が浅くなり、灰色に濁って異臭を放ちそうな水が、流れるでもなくどろっと淀んでいる。
日本人は自分の手で国土をぶち壊し、汚濁させ廃滅させているのだ、と私は思った」
町はその後もどんどん変貌していったわけだ。

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